申し合わせと会場となる能楽堂の打ち合わせが済み、あとは本番まで集中してゆきます。
さて、お席の事ですが、今回早くに完売となりまして、結局当日券は出せないということになりました。
チラシに当日券の有無はご確認下さいと書いてありますが、今日の打ち合わせで決定致しました。
わざわざ来て頂いて席がご用意出来ないで、御帰り頂くのも申し訳ありませんので、お知らせ致します。

今回大変ご好評を頂きましたので、また飯島さんと違う公演でご一緒致します。
詳細は決まり次第お知らせ致します。来年の早い時期になると思います。乞うご期待。


さて久々なので、さらに結界の話。

夜、誰もいない暗く静かな能楽堂で野宮の作り物の鳥居を出して稽古をしていましたら、とても不思議な感じがしました。なんというか、ここは凄く縛られた空間なんだなと。
もともと舞台は四方柱に区切られ、屋根もあり、舞台自体が特別な空間であり結界です。そこにさらに鳥居という結界を作るのです。

能台本を読んでいると、その結末は六条御息所は火宅の門を出たとも、出なかったともとれます。私としては、出て欲しい。観念的にはそう思いますが、実際舞台で稽古をしていると、人の自らの力ではそう簡単には抜け出せないのではと思うような気がしてきます。あの野宮の鳥居は、まさにこっちとあっちの世界をつなぐゲートのような重い存在の象徴でもあります。そう易々と行ける感じがしないのです。
ちょうど人一人が抜けられるだけの大きさというのも絶妙です。
生身に感じる感覚が、結構な抵抗感なのに驚きます。
そこを抜けるには何かが必要です。
自らのよほどの決心か人智を超えた何かか。仏の救済か、神の力か。
そんな風に思います。

この結界の中で舞っていると、我々の人生も、こんな感じなのかなあという気がしてまいります。
人生は舞台の如しといいますが、行きつ戻りつ、廻りつ。
そして、目に見えないその壁の向こう、そのドアの向こう、その門の向こうには、別の世界があります。

能では、火宅を出る、その助けとして、僧侶がわれ知らず呼び寄せられたのだなと、そんな気がしてまいります。
僧侶の弔いと月の光。その光の先に導かれるのか。
果たしていかなる結末か。

なんだかとても面白いです。

とはいえ能には狂言綺語という事もあります。
つまり作り事ということです。
そういうと身も蓋もないのですが、こういう曲は、僧侶と伊勢の神と鳥居が出てきますし、ちょっと霊的な世界の話でもあるので、一応ご注意に申し上げておきます。スピリチュアルに感じ過ぎないように。でも、それをしてなお惹きつけられてしまうですが。
この作品、世阿弥時代の金春禅竹の作といわれます。600年以上演じられてきた曲は、凄いものがあります。
私はすっかりこの作品に魅了されてしまいました。少しでも曲に近づけたらいいなと思います。

申し合わせが済んで、まただいぶ感じが変わり、これはやってみないと分からないなという気がして参りました。
とにかくも精一杯勤めます。よろしくお願い致します。