能楽夜ばなし

能楽師遠藤喜久の日常と能のお話

矢来能楽堂

矢来能楽堂師走能 12月4日 好評発売中

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さて全国20地域で繰り広げられてます能楽キャラバン公演のひとつ矢来能楽堂師走能まで、ひと月と迫りました。
番組
解説 観世喜正
仕舞 淡路 駒瀬直也 当麻 観世喜之
狂言 呼声 シテ 大蔵彌太郎
能 海士懐中之舞 シテ遠藤喜久 地頭観世喜正

初めての方、初心者の方にも能楽の魅力、迫力、伝統美、面白さ、日本の歴史、文化の豊かさと伝統芸の良さを感じていただける番組です。
東京神楽坂の国の登録文化財の矢来能楽堂の趣ある舞台。帰りには神楽坂散策をなんていうのも楽しいです。

チラシにも解説が書いてありますが、狂言はNHKのEテレにも取り上げた、主人と太郎冠者に次郎冠者も加わってのわかりやすく楽しい狂言。観ている皆さんもつい声を出したくなるかも知れません。

能のタイトルになってる海士アマは、海辺に住み、海に潜って漁をする人達の事で、この曲の主人公は女性の海女。
その海女が、1300年に実在した名門藤原家の御曹司
藤原房前の産みの母だという秘密。
なぜ身分違いの海女が、藤原房前の母になり得たのか。
四国讃岐国、志度寺に伝わる海女伝説の能です。その真実は如何に。

世阿弥以前の能楽草創期の作品と言われ、物語と共に日本の歴史や文化の匂いを感じさせてくれます。

物語の展開がわかりやすく、セリフや舞が多いので、初心者でも眠くならずに楽しめる、大変面白い能。

昔むかしの物語なのに、古臭さを感じさせないのもこの能の魅力。セリフが多いので、現代劇的に時系列に展開して行きます。

親子の情愛がテーマの一つになっていて、母が子供の為に命懸けで頑張るのは、昔も今も一緒だなと、共感出来るかと思います。
母の愛は海よりも深い。
この曲の稽古をすると、私も亡母を思い出します。

今回は私の個人主催公演ではないので、チケットのお問合せは矢来能楽堂へお願い申し上げます。
ご来場お待ちしております。

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海士の副題についている懐中之舞とは、小書という演出名の事。
後半、いよいよ成仏に向かう母が、龍女となって現れますが、ふところに経巻を持っています。
この経巻に書かれた霊験あらたかな経を胸に懐中して舞うので、懐中之舞と名付けられた演出。
通常は、息子である房前の大臣にすぐに経巻を渡してしまうのだけど、今回はより物語がわかりやすくなった演出かと思います。そこは見てのお楽しみ。

その他、この懐中之舞になると、橋掛まで舞台全体を使った替の舞の型の演出になるので、演技空間が広がってよりドラマチックになります。
矢来の舞台では、この演出で上演するのは何十年ぶりかも。
海士には、色々な小書演出があり、また上演時間も長くも出来るのですが、今回は長くならないようにスッキリまとめる予定になっています。

どうぞお楽しみに。








能 絵馬 1月9日九皐会公演 ジオラマ岩戸

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1月9日の公演解説のついでに紙粘土をいじっているうちに、すっかりジオラマにハマってしまった。

小学生の工作と変わらないけど、立体的になると、なんかとても楽しい。
時間があったら、もっと細かく作り込みたいところ。

神様はこうして人間を作ったのかもしれない。(なわけないか)


さて、今回はジオラマでなくて、能を見ていただきたいわけであります。←とても大事


神話の世界が実際に能になると、ずいぶん雰囲気が変わる。音楽や絹の装束からして煌びやかであります。
まさにそれが能であります。

そこを是非実際に能楽堂の客席で感じていただければと思います。
ご来場お待ちしております。


本日は、年明けの鎌倉芸術館公演の申合せがあり、これで私の年内の舞台関係は終わりまして、残すは社中の稽古のみ。

今年は、昨年に比べるとずいぶん忙しくなりました。
学校公演にもあちこち出張出来ましたし、地方の稽古も再開。ミューズ公演の巴をはじめ、九皐会の舞台も盛久、玄象とさせていただき、また、五月に久しぶりの遠藤喜久の会で、延期になっていた父の七回忌追善能「半蔀立花供養」も出来まして、去年よりずっと良い年になりました。

お客様やお弟子さんの顔もずいぶんと明るく元気になられたように思います。
来年はさらに良い年になるよう祈念します。
お世話になりました皆様、誠にありがとうございました。心より感謝御礼申し上げます。

新春は2日の矢来能楽堂の公演からスタートで、年明けから催しが続きます。
明年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

皆様にとって、新年も素敵に年になりますように。
どうぞ良いお年を。

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九皐会の新春の受付は1月6日からです。
一部完売ですが、二部はまだお席、桟敷、中正面余裕あります。ゆったりと見たい方は後方桟敷席(椅子)おススメです。正面席もあります。
九皐会定例会の私のシテは、この一番なので、見損なうと再来年まで見れません。
是非ともご覧下さい。宜しくお願いいたします。

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能 絵馬 解説4 神々の話 

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神々の話

1月9日の絵馬公演も近づいて来ました。

今年はお正月休みがなさそうな年の暮れです。

さて解説の続き。


この絵馬の能の後半に登場するのは、伊勢神宮の祭神にして皇室の祖先。皇祖神にして天上世界・高天原を統べる太陽神。天照大神(アマテラスオオミカミ)

そして、天の岩戸隱れに活躍する天照の天宇受売命と天手力男命。


古事記に描かれた日本神話がお話の下地になっています。


ざっくり神話のおさらい


国産みの二柱の神、イザナミノミコトとイザナギノミコト。

イザナミは最後に火の神を産んで亡くなり黄泉の国へ行きます。

その後を追ったイザナギでしたが、黄泉の国で雷を身に纏い蛆が這うイザナギの姿を見て怖くなり逃げ出し、ついに夫婦別れすることになります。


その後、黄泉の国から戻ったイザナギは、黄泉のケガレ落としの禊をして、その時に神々が沢山産まれます。


中でもイザナギの左目からアマテラスオオミカミ(天照大神)が生まれ、高天原の支配を命じます。


右目からツキヨミノ命(月読命)が生まれ夜の世界の支配を命じます。


鼻からスサノオノミコト(須佐之男命)が生まれ、海原の支配を命じます。


ところが荒ぶる神スサノオは問題を起こしてばかり。ついにイザナギに追放されてしまいます。


その後、姉の天照大神のいる高天原に来て、何度も暴れたので、ついに天照大神は天の岩戸に隠れてしまいます。


しかし、太陽神の天照大神がいなくなると世界は暗闇に閉ざされ、禍いが起こりました。


神々は困り果て、天照大神に岩戸から出て来てもらうようにどうしたらよいかと天の安の河原で話合って策を練り準備をします。


やがて天宇受売命が岩戸の前で桶の上に乗り神懸かりになって舞い狂い、衣服ははだけて神々は大笑い。

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天照は、自分がいないのに、なんでみんな盛り上がってるの?と、そっと岩戸を少しだけ開けます。

すると岩戸から光が溢れ出します。

そこにすかさず二人の神が鏡を向けて、あなたより尊い神様が現れて盛り上がってますよと囁くと、天照大神は、一体どんな神なのかしらと、さらに外を覗こうと岩戸を開きました。

そこですかさず隠れていた天手力男命が天照大神の腕を掴んで引っ張り出し、岩戸に注連縄を貼って封印しました。

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かくして世界は再び光を取り戻した。

というお話。


鏡も注連縄も今日でも神社や神棚で使いますが、神話時代より今に続いています。


能の絵馬の後半は、伊勢神宮の祭神たる天照大神が、この岩戸隠れの故事の再現し、帝の勅使が神の奇跡を目撃するという話の展開になっています。


もし皆さんが、日本の総氏神たる天照大神に出逢えたとしたら。

そして岩戸隠れを目にすることが出来たら、これはもう、大変な奇跡ですね。


後半では、天照大神、天鈿女命、天手力男命の三柱の神が登場し、まずは天照大神が、舞を舞い(中ノ舞)

そして岩戸隠れをしますと、天鈿女命が天照を誘うために(神楽)を舞い、手力男命が(神舞)を舞います。

この三つの舞を立て続けに舞うのはこの曲のみの珍しい演出です。


今回の能は、女性能楽師も出演して頑張ってくれます。

左から手力雄 天鈿女、天照、姥(神の化身)

朝稽古の後の一枚。

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私は最初に舞った後、岩戸に隠れるので、残念ながら二人の神々の舞は見れませんが、是非お客様には楽しんでいただきたいと思います。


チケットは観世九皐会まで。

二部の絵馬は、お席に余裕がしっかりありますので、良い席でご覧いただけると思います。

是非、お越し下さい。


なお九皐会事務所受付が、暮れの28日から年明け5日までお休みに入りますので、ご了承下さいませ。

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能 絵馬 見どころ聞きどころ❶ 三つの舞と囃子

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後半の解説 神々の話をする前に、ちと別の視点から見どころを紹介します。


この曲の後半は、天照大神と天鈿女命と手力男命の三人が出でくるわけですが、この三人がそれぞれ舞を舞うという大変珍しい作品構成になっています。


能楽用語としては、

アマテラスがチューのマイ(天照大神が中ノ舞)

ウズメがカグラ(天鈿女命が神楽)

タジカラオがカミマイ。(手力雄命が神舞)


中でもウズメ(天鈿女命)の舞は芸能の起源なんて言われます。

今回はウズメと同じ女性演者の新人、河井さんが勤めます。



能の前半の最後、太鼓が加わり来序ライジョという中入の退場囃子を打ちます。

この囃子のリズムに合わせるように今までと違う、とてもゆっくりしたスリ足で中入りしますが、実は神が飛び去る超高速をスローモーション的に表現しているとも言われます。


神様の化身という事で、登場の時は、大変厳かな真ノ一声(しんのいっせい)という格式ある出囃子で登場し、前半の終わりの中入は来序で退場するわけです。



そして間狂言の後、後半は全て太鼓が入った華やかなお囃子と神様達の三柱三様の舞が見どころになります。


お囃子方は、ずっと演奏しっ放しになるので、この曲はホントに大変です。

お囃子の音楽が好きな方には、たまらない曲です。


今回はまた、笛は今年の私の玄象を吹いていただいた森田流の松田先生をはじめ超手練れのお囃子方での演奏。

掛け声も凄いです。

聞きどころ見どころ満載の囃子となると思います。


生の迫力ある演奏をお楽しみください。

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能 絵馬 解説 ちょっと休憩 天之岩戸

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いや、ホントに忙しんですってば(笑)
100均の粘土をつい手にとってしまい。。。またも現実逃避。。楽しい。。。

能では作り物という自分達で作る布地の大道具が岩戸になりますが、本来岩戸は岩なわけで。こんな感じだろうと。

以前高千穂に行った時に、そこにも岩戸伝説があり、私的にはこんなイメージでした。
天上の話が、下界の現世に転写されていて、観光客以外、人なんて来なさそうな山奥の史跡に神々が集まったという伝承をとても不思議思いましたっけ。

でも、自然の岩肌や美しさが残り、逆に神々しくもあった高千穂でした。
また是非行きたい美しい所でした。
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絵馬 解説4   神々の話につづく


 
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能 絵馬 解説 その3  古今和歌集の話

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新春1月9日 東西線神楽坂 矢来能楽堂 観世九皐会公演 絵馬

解説その3。
前半の解説の続きです。
神様の化身のお爺さんとお婆さんが仲良く白馬、黒馬の絵馬を掛け新年の豊作を祈念して、めでたくなったところで、ここから地謡で歌われるパート入ります。

ここからは、"絵馬を掛ける"という言葉を“馬が駆ける"   や “絵にかける”  に結び付けた縁語の言葉の歌が謡われます。

ここは直接話の筋には関係なくて、曲を膨らます彩りのような場面です。この時、シテが少し舞った後、舞台中央に座り地謡の聴かせどこになります。

賀茂神社の祭礼の馬の駆け比べ
松に掛かる藤の花
峰に掛かる白雲

「かける」言葉の語呂合わせで、華やいだ美しい様のあれこれを歌って、曲に彩りを添えています。

この絵馬という曲は、シテの登場からして古今和歌集から引いた歌の変え言葉が使われてますけど、そこかしこに古今集の文言がセリフや歌に散りばめられています。
古今集和歌集は、ご存知、平安初期の日本初の醍醐帝による勅撰和歌集。今からざっくり1100年前。歌の数も1100首(1111とも)。

古今集の序文、紀貫之が書いたという仮名序の冒頭 
”大和歌は人の心を種として“から始まる文章から、“力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれと思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり”
も姥の台詞に引用されています。他には下記の歌の一部が。

わたつうみの 浜の真砂を数えつつ 君が千年の ありかずにせむ (読み人知らず)

八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を (スサノオのミコト)

梅の花 それとも見えず久方の 天霧る雪のなべて触れれば(柿本人麿?)

またクセ(曲)と呼ぶ詞章の始まりは、まんま古今集序文の引用で、

「僧正遍照は、歌の様は得たれども、まことすくなし。
例えば"絵にかける"女を見て、いたずらに心を動かすが如し。」
浅緑糸より”かけて“ 白露を玉にもぬける春の柳か (僧正遍照)

と、古今集の言葉で彩りながら、前半のエンディングに筋を繋げて、お爺さん達は、実は神の化身だと正体を明かし、更なる奇跡を伊勢本宮で見せようと消え失せます。

もっともポピュラーであったろう聴き慣れ読み慣れた古き和歌の言葉があちこちに出てくると、本歌から更に想像が膨らんで楽しい!と、挿入されたのかと思います。
漢詩や和歌を引くのは能の台本作りの定番ですね。

現代ではこれを聴き取れる人がどれだけいるかしら・・。でも台本を見れば、意外とわかります。

前半が終わりシテが中入(ナカイリ)し、後半との間は、間狂言(あいきょうげん)の狂言方の出番。

大晦日の追儺(ついな)の鬼に因んでなのでしょう、仙人の住む幻の蓬莱(ホウライ)から来た鬼達が、伊勢の神様に宝物を捧げに現れて、舞台は賑やか和やかな雰囲気になります。

鬼なので面を付けての登場です。
そして能の前半のあらすじを、おさらいするように語り、打出の小槌を振って帰ってゆきます。

厄除けの追儺では払われる役の鬼ですが、この能の中では、めでたさを語る鬼達です。

ちなみに節分の「鬼は外!」は追儺の鬼祓いを起源としているようです。(異説あり)


さて、次回はいよいよこの曲の一番の見どころ。
神々のお話ですね。

お楽しみに。


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なお、お席は良い席沢山あります。
翁と一緒にご覧いただけたら嬉しいです。
チケットのお問い合わせは矢来能楽堂まで。
年末年始は、職員が休みに入りますので、どうぞお早めにお申し込みください。





能 絵馬 予告 解説その2 絵馬の神事

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この写真はお借りしたものです。

もう8年位前になりますが、社中有志と能楽史跡巡り旅に出て、この絵馬の能の描かれる伊勢に参詣しました。その時の写真が出てきたので、まずは、その時の写真をお披露目。

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上の写真は伊勢の復元された斎宮跡(斎宮歴史博物館)
大変広大な立派な敷地で、館は10分の1スケールだそうだが、伊勢斎宮の権威の程がうかがい知れる。
我々は行き先々で旅の記念に謡いを謡ってきたので、その時は、野宮と絵馬の短い謡いを皆で謡った。かな。


この斎宮のすぐそばに竹神社があり、ここが能 絵馬の史跡になっています。
かつて伊勢神宮に向かう街道に絵馬堂というものがあり、そこに立春の前夜に、その年の天候の占の結果を絵馬で示す絵馬が掛けられる神事が行われいたという。

能 前半のあらすじ
絵馬の中では、帝の勅使が伊勢に向かう途中に斎宮に立ち寄り、絵馬の神事の目撃者となる。
(何者かがその年の天の相を現す絵馬を掛けるという神事。勅使は、噂に聞く神事を確かめようと、まるでサンタクロースの正体を確かめるように、夜を待っていたのでしょう)

そこに神の化身たる老夫婦(前半のシテ・ツレ)が現れ、日照りならば白い馬、雨の多い年ならば黒い馬の絵馬をかけて、民にその年の用意を促す為に絵馬をかけることを語る。

夫婦はそれぞれ自分の持つ絵馬を掛けたがるが、結局、今年は初めて、白と黒の二つ掛けて、実り豊かな雨も降らし、日も照らして、人々が安楽の恵みを受けられように祈りを込めて、二人して絵馬を掛けることにする。

「人民快楽の御恵みを かけまくもかたじけなや  国土豊かになそおよ」と新春を寿ぐ大変おめでたい謡いが謡われる。


夫婦の二人は、今までは人知れずこの神事を行ってきたが、今宵はその様を帝の勅使に見せたからには、正体を明かそうと伊勢の二柱の神の化身と名乗り、夜明けに大神宮にて会おうと、再会を予言をして消え失せる。

ここまでが前半。

帝の勅使は、神の目撃者として、この後、さらなる凄い奇跡を目の当たりにすることになります。
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さて、この伊勢二柱。
普通に考えると伊勢の二柱(神様は二人と言わず柱で数える。ふたばしら)といえば今の内宮外宮の主祭神、天照大神と豊受大神だけど、謡曲大観によれば、ここでは夫婦の日神月神として創作していると解説にあります。
月神といえば月読命。

豊受の神様は、天照大神が召喚した五穀を司る食の神様だから、豊作にも通じ、前半の筋からするとこの神様の解釈でもいいような気もしますが、後半の謡いを聞けば、やはり月読命でしょうかね。
*アメノウズメと書いている解説書もあります。

という事で、その3に続きます。
一月チケット受付中。
翁だけじゃなく、是非絵馬も観に来て下さい。
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明日は九皐会納会。瞬き位一年早かった。
今年もありがとうございました。
明日は大和舞の後見勤めます。
当日券あります。
矢来能楽堂へ是非。



能 絵馬 予告 解説その1  暦の話

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(写真はお借りしたものです)

旧暦の話

(新暦)令和四年19(日曜日)に東京新宿区神楽坂 矢来能楽堂 定期公演二部で上演する絵馬ですが、この日は、旧暦で云うと、まだ127日にあたります。


そう、明治6年に改暦した現在の新暦(太陽暦)で令和4年の1月1日は、旧暦即ち月の満ち欠けサイクルの暦では、1129日。まだ秋の終わりということになります。


なぜこの話をしたかというと、絵馬の能で、前半に登場する尉と姥、おじいさんとおばああさんが、冒頭に

「あらたまの春に心を若草の神も久しき恵みかな 霞も雲も立つ春を 去年とは言わん年の暮れ」と歌うからです。


この老夫婦、新春を前に伊勢斎宮の節分の日に絵馬をかける神事に奉仕する二人です。


太陰暦の11日は、毎年少しづつ変わります。

一年の日数計算が違うからです。


で、立春は太陽の動きから算出する二十四節気基準なので、だいたい24日頃。

で、この前の日が節分。

この日に絵馬をかける神事を行います。


ややこしいのが、立春前に旧正月11日になる年もあれば、立春でもまだ12月の年もあります。


これを年来立春と云い

立春なのにまだ去年(こぞ)(12)の年の暮れと歌ってるわけです。


絵馬のセリフとなったこの歌は、古今和歌集巻頭一番歌の「年の内に春は来にけりひととせを 去年(こぞ)とやいわむ今年とやいわむ」(在原元方)

から引いたのでしょう。

それを登場の最初の台詞謡いに持ってきたわけです。


来年令和四年の立春は24日 節分は23

そして旧暦11日は、新暦21日となります。


なので来年は立春前に旧正月が来るので新年立春ということになります。


なかなかピッタリの日に能の上演が出来ないわけですが、昔の季節感もこの謡いから感じていただけたらと思います。


新しい年の実りと安寧を祈願する絵馬の神事を前半に描く、正月に相応しいおめでたい能です。



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11月終わりは出張で秋田から出雲と東奔西走でした。
出雲割子蕎麦食べました。
食べ方知らず、慌ててネットで検索しました。
美味でした。
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絵馬の解説ボチボチ書いて参ります。お楽しみに。

3月14日日曜日 12時30分開演 盛久の見どころ聞きどころ あらすじ解説 

3月14日の九皐会定例会も迫りました。まるでお芝居のような筋たての面白い曲なので、

盛久の見どころ聞きどころ あらすじ解説いたします。(結末までの詳しいストーリー解説を含みます。)


盛久は、俗に三盛と称し、実盛・通盛と並び、謡いの難度が高い曲と言われています。

それだけ節回し、役の心持ち、物語の展開が複雑で面白く出来ています。

故に観世流の謡曲では、習い物という格付けの準九番習の一曲になっています。


盛久の能は、シテが面をかけずに直面(素顔)で演じる。ただし、素顔を面として演じるのであって、現代のテレビドラマの顔芸ような感情をあからさまに表情に出すことはなく極めてクールです。まさに能面のように。

しかし、生身の人間の顔だから、どれだけクールに演じても、自ずと滲み出るものはあり、その妙が見どころになると思います。

能面と同じく、特徴的でありながら観る人によって如何様にも解釈想像出来る素顔の面でありたいと思って演じています。



盛久は、今風に言えば、戦いに負けた側の名のある将校であり捕虜なので、勝った側(頼朝)に戦争犯罪人として裁かれる身です。

そして九分九厘、死刑を言い渡される運命でした。


この捕虜の盛久を預かるのが、土屋という頼朝側の武将であり、ワキ方が演じるキーパーソンです。京都から鎌倉へ盛久を護送して来ます。

この二人には戦場を戦ってきた男同士の友情や敬意のようなものが漂っています。

勝敗や生死は時の運。いつ立場が逆になってもおかしくない世の無常を熟知している二人なのだと思います。

現代の戦争映画にも敵同士の交流を描くものがありますが、能は、ひたすらクールで、二人のやりとりは淡々としています。しかし、どこか打ち解けて話す二人の会話は心地良い。

今回の土屋殿は、森常好師が演じます。大人の包容力が見どころになるでしょう。


盛久は信仰心の篤い男で、日夜観音経のお経を読み、自ら観音像を彫り祈るような真摯な男。戦さで戦う己の罪を知っていると感じます。


能の冒頭、盛久は今生の名残に清水観音の方へ輿(護送の乗り物)を向けるように願い、土屋はそれを聞き入れ清水に立ち寄ります。

舞台中央で観世音菩薩に祈る盛久。盛久は死を覚悟していて、再び来ることはないだろうと思っています。名残の桜も見納めと清水に別れを告げます。


清水観音に祈りを捧げた盛久は、一路旧東海道を鎌倉へと護送されます。

この場面が、道行という地謡で聞かせる場面。

東海道の名所を読み込んだ地謡の謡いに運ばれて鎌倉へとやって来ます。


舞台進行では、橋掛をぐるりと廻る行き道で、長い旅路を表します。

今は新幹線で4時間足らず、CMでは15秒の旅も、かつては徒歩。

能の道行も決して長くはないですが旅の風情が出れば良い場面です。


やがて再び一行が本舞台に戻ってくると、そこが鎌倉入り、そこからは処分を待つ屋敷の座敷での場面となります。

今でいえば捕虜収容所ですが、平家譜代の武略の達者と誉れ高い盛久への待遇は決して悪くありません。


土屋が訪れると、刑の執行を望む覚悟を漏らす盛久。

しかしまだ処刑までは一刻の猶予があり、盛久は毎日かかさず唱えてきた

お経を読みたいと所望します。


その清水観音経には、我(観世音菩薩)を真に信仰する者は、必ず助けると救済の誓いが書かれています。

そしてたとえ刑場で剣で斬られる時でも、その剣は、粉々に砕けるとも。

しかし盛久は、目先の救済を求めて経を読むわけはなく、魂の真の救済を祈っていると土屋に語ります。この場面、土屋が経を聴き入り、いつしか土屋も声を揃えます。


やがて明け方まで、盛久がひと時の眠りに落ちると、不思議なことに夢に観音の化身の老いた僧侶が現れて目が覚めます。


盛久は観音に感謝し、由比ヶ浜の刑場へいよいよ向かいます。


斬首の場につき、清水の方を向き、経巻を開き観音経を唱える盛久。


執行人が太刀を振りかざすと、盛久が手にした経巻より光が射し、思わず取り落とした太刀は粉々に壊れました。

観音経に書かれた通りの神秘が起きたのでした。


この不思議な出来事に直ぐに刑の執行は取り止めになり、盛久は頼朝の御前へと召し出されます。


能では、正面客席側が上座になり、そこに頼朝がいる設定で、実際の頼朝は登場しない。そのほかの武士や役人も能舞台の演出には、そこにいるけれど、観客の想像に任せてという演出をとり、土屋一人が登場している。


頼朝の御前。そこで語れる、前夜の不思議な夢の中の出来事。

夢に現れた老僧は、盛久の長年の誠の信仰を知っていて身代わりになると夢の中で約束したのでした。


能では、地謡がそれをクセと呼ばれる一連の聴かせどころで謡います。

それも聴きどころ。


不思議なことに、源頼朝も明け方同じ夢を見たのでした。


頼朝の言葉は、地謡が代弁します。


なんという不思議な夢の告げであろうか。それも同時に二人が見るとは。

盛久の信仰の篤さは、天に通じ、奇跡は起きた。

そのことに頼朝も感動し、そして自分にも清水観音の夢が下ったことにも

感じ入ったのでした。

清水の観世音菩薩が救った盛久の命を、頼朝はもはや奪えるはずもなく、盛久は、命を許され、頼朝に祝福の盃をもらって、舞を舞うよう所望される。


盛久は舞の名手であることも頼朝は聞き及んでいた。


盛久は、それならばと御前に出て鮮やかにめでたく舞を舞う。そして長居は恐れありとその場を退室し、一命を取りとめて能は終わります。


*伝承では、この後、盛久が清水観音にお礼参りに伺うと、処刑執行の同時刻、盛久が彫って寄進した観音像が倒れ破損し、盛久の身代わりになったと伝えられる。

その像は、八百年の時を経て巡り巡って東京上野公園にある清水観音堂の秘仏となり、毎年、盛久の奇跡の起きた二月の初午の日に年に一度だけ公開されて、清水観音の霊験を今に伝えている。



現代的に解説しても、とても劇的で面白い曲です。

深刻な物語の始まりから、徐々に盛久の人柄が明らかになり、やがて奇跡を経て、爽やかな颯爽とした舞で終わる後味の良い曲です。


映画にすれば信仰の奇跡を描く長時間の大作に出来る内容を、少ない登場人物と無駄を削ぎ落とした場面展開によって、凝縮した時間の中で物語を成立させている能の演出も見どころです。

観る方様々に想像をしながらご覧いただけたら面白いと思います。



矢来能楽堂は変わらず万全の感染症対策をしながら安全に運営しています。


そろそろ能楽堂へ足を向けてみてはいかがでしょうか。


ご来場お待ちしています。

チケットは、矢来能楽堂に直接ご連絡いただき、席の希望などをご相談いただければとお思います。お席には充分な余裕がございます。

よろしくお願いします。

女郎花 男と女は難しいね

日曜日に迫った九皐会定期公演。
申し合わせも済みました。

女郎花(オミナメシ)ですが、いざ演じる立場で考えてみると、この曲の前提となっている、男と女の話が、わかったような、わからないような。
このところ頭を悩ませていたのです。
グズグズと書いておりますので、お暇な方はお付き合いくださいませ。


そもそも能、女郎花の主人公たる小野頼風って、何者なのでしょう。
この女郎花伝説の原点と言われる三流抄という古書には、八幡の人と書いてあります。それ以上はよくわからない。

能の台本も同じく。昔そういう人が居たらしいという話になっている。

この当時の結婚観は、通い婚で、それなりの甲斐性がある人は、幾人かの女性の所に通っていたようだから、今と感覚は違うだろうけど、女郎花の二人は、都で一応夫婦(婚約)関係にあり、迎えに戻ると約束しながらも、そこから男一人、八幡に戻って来る。

なぜ一人で戻ったのか。

それは仕事の為だったのか、実はその女性と少し距離を取りたかったのか、あるいは何か家の事情だったのか、それとも家に実は本妻がいたのか、その本妻と別れ話をするためだったのか、はたまた別の全く恋人が出来たのかは、能台本からは、わからない。


でも結局のところ、日が経ち、男が迎えに来ないので痺れを切らして都から追って来た女性は、自分が男に捨てられたと誤解?をして、死んでやるー!と身投げする。コワイコワイ。

なぜ誤解したのか?

三流抄という原作本?では、留守の者が、他に新しい妻が出来て、そっちに行っていると答えたので、絶望したとある。

うむ。これなら、明らかに裏切ったので、なんとなく納得出来る。

でも能台本は、そこは、間狂言がさらりと触れるだけ。
留守の者が心なく答えたので、女は、男が心変わりしたと誤解したという感じになっている。

当時の人は、女郎花の昔話を皆知っていたのが前提となっているのか、その説明はあまりされていない。

こないだ現地行った時見た伝説の説明文では、男の足が遠のいたとか、新しい奥さんが出来たとか、そんな事も書いてあったような。。。

何故男は、後を追って死んだのだろうか?

三流抄では、新しい妻の存在が出てくるのだが、そういう人がいて、あとを追うか?
何か政略結婚のような気の進まない相手だあったが、心は都の女にあったとか。
何かすっきりしない。


この疑問を解消するためなのか、能台本は、話をシンプルにするために、本妻さんや新しい恋人の存在には触れず、留守の者との、やり取りで勘違いした事になっている。

あくまでちょっとした誤解で、男はその女性が好きだったんだなという話。

必ず迎えに行くと言ってすぐに行かずに誤解を招き、好きな彼女が自殺し、罪の意識に苛まれ、後を追ったという筋書きだ。

女郎花の男女の伝承は、その後のことは、伝わっていないので、旅僧の弔いに出てくる後半は、能独自の部分。

後場の旅僧の弔いの前に、女は、男と現れてもなお、[恨むらさきか、葛の葉の ]と謡い、死しても男に恨みを残してる。
先に身を投げた彼女は、死んでも恨んでる。。。許してない。
花になっても、男が近ずくとなびき退き、離れると元に戻る。

こうなると、あと追った男は報われない。

あなたがちゃんとしないから、不安になって、それで誤解して、おかげで私が死んでしまったのは、全部あんたが悪い!
今更あんたが死んでくれても遅いわ。どーしてくれるのよ私の人生。
もうあんたなんか嫌い!と(まあ、そう思ったかはわからいけど)恨んでいる。

やっぱり小野頼風が、どうにもこうにも悪いのだろうと思えてくる。

女性に、これってどう思う? と尋ねると、十中八九、この男が悪い!
そんなの当然だ!と言われそうだ。



能台本では、死後もなお、頼風は地獄で恋人を求めて、もがき苦しむ。
山の上に恋しい人を見つけて登るが、その山は、剣の山でズダズダに引き裂かれ、岩で骨を砕かれるのだ。
それが永遠に続く。怖い。


しかし、
前半では、旅僧の前には、この世で女郎花の花になった妻を守る花守として化現する。
妻の花が咲き乱れているのだ。まるで天国だ。

それはまさに頼風が夢見た幻の風景なのかも知れない。

長閑な女郎花の咲く野原で、風流に和歌など歌っている。

で、壮麗な岩清水八幡宮まで参詣する。

能の後半の地獄模様とは打って変わって長閑なのだ。

一応後半に続く伏線なのだが、あまりに長閑な場面が続く。しかし、
突然、実は、妻が自殺しまして、私も自殺しましてという展開に強引に持っていかれる台本なのだ。

なんか、言葉にすると、そもそもは凄惨な事件なのである。
能になると、やんわりとした感じになるが、テレビドラマならかなりディープな話だ。

しかも事件の現場は、放生川。
生きる魚を放って功徳を得る放生会をする神聖なところな訳で。
土地の人なら知ってるだろう神域に、知らずに入ったとは思えないのである。
婚約不履行でカッとなってしまったか?
もし、神聖な川だと知ってたとなると、男が神事に関わる人であてつけたか。何れにせよひどく罰当たりな場所だ。
そして男も、よくそこに後追って入ったと思う。罰当たりますよ。本当に。
まあ、だからそれも含めて罪は重くて地獄に堕ちたのだろうけど。


それでも。それでも男は女の後を追った。そういうことなのかなあ。
その執着が罪である。

あのさー。頼風さん。
初めからこんな事になる前に、何とか出来なかったのかい???と、聡明な皆さんは思われる事だろう。僕もそう思う。

でも、それだと物語にならない(笑)

で、男と女の間には、きっと他人には想像もできない事が沢山あるのかも知れない。子供にはわからない。


妻 かの頼風に契りを込めしに
頼風 少し契りの障りある。人まを まことと思いけるか。


この二人を引き離した、障りとは何だったのか、最後まで分からずじまいであった。

原作らしき話から離れて、能のオリジナルな脚色台本は、詳しくは語らない。


曲舞の中で、「ひとえに我がとがぞかし」自分がいけなかったと嘆いている。

それ以上は語られないから、この行き違いは二人だけの永遠の秘密なってしまった。

誤解で身投げなんてねえ。

実に隙間の多い台本であれこれと妄想膨らむ演目なのであります。

最後は、岩清水八幡宮の本家とも言える宇佐八幡宮のある九州から来たという旅僧(佐賀県の松浦潟から来たと冒頭に名乗るが、宇佐八幡宮は大分県であるから近くもない)
が弔って、成仏に向かわせて終わる。

どこか曖昧模糊とした作品であるが、ある人にとっては、とても考えさせられたり、身につまされたりするのだろうか。。

さて、どんな頼風になるか、ご期待ください。


当日券あるそうです。観世九皐会事務所へお尋ねください。




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nohgakuhanabutai

観世流能楽師(能楽のシテ方 演者) 日本能楽会会員(重要無形文化財 能楽(総合認定)保持者 幼少より子方を勤め、東京神楽坂の矢来能楽堂で修行し2千以上の能楽公演・講座・コラボ舞台に出演・制作。毎月、矢来能楽堂定期公演に出演。 能楽重習曲、乱・石橋・道成寺・望月・安宅・砧・翁など披瀝。 また東京中野区・練馬区・所沢市・秋田県を中心に稽古と普及活動をしている。(公社)観世九皐会 能楽協会所属 日大芸術学部卒業 
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