インフルエンザが流行っていますね。皆様は如何お過ごしでしょうか?
私は何とか今日までは風邪もひかず、通盛の申合せも終わりました。このまま無事に行けるといいのですね。

さて、通盛の物語の時代の歴史の流れがわかっていると、能もさらに楽しくなるので、一ノ谷の合戦の辺りまで、ひと通り世に知られたお話しをさせていただきます。

今回は当日プログラムの解説がないので事前に読んでいたただくといいと思います。
あらためて日本史勉強すると面白いですね。
丁度、NHKの大河ドラマが清盛のお話で、毎週楽しく見ております。まだドラマの方は保元の乱のずっと前ですね。能ではお馴染みの西行や、保元平治の乱で活躍する信西がドラマに絡んできて面白いです。この頃はまだ武士の身分が低く、清盛のお父さんが頑張っている時代です。

さて、それからポンと時間を進めます。公家同士の権力抗争に武士の源氏や平氏が巻き込まれてゆきます。しかし、武力による政治決着は武士の台頭を促します。そして保元の乱のあと信西の政治的思惑と絡み平家は源氏を凌ぐ恩賞を賜ります。
1160年の平治の乱で平家一門が台頭。謀反を起こした源義朝ほか一族は四散します。
この時、奇跡的に命を助けられた頼朝、義経が20年後の立役者となってゆきます。

1167年平清盛は、武士の出身の身でありながら太政大臣に就任し人臣を極めます。
それから10年間、平家一門の栄達は目ざましいものがありました。
しかし、打倒平家の芽は、宮中でも、また東国の武士の中でも少しずつ育ち始めていました。
娘を高倉天皇に嫁がせた清盛は、帝の寵愛を受けた「小督」を追い出してしまいます。能では、その小督に帝の使者が文を届けるというお話。
小督には娘さんがいたようですね。平家滅亡後、この娘さんは大変な位に上られますね。数奇な運命です。

ちょうど同じ頃、後白河法皇や俊寛といった反平家勢力は、打倒平家の密議を鹿ヶ谷で行います。
その謀議が発覚して「俊寛」は鬼界ヶ島に島流しになり、2年後には亡くなったといいます。
この頃、清盛の娘徳子(後の健礼門院)は、天皇の子を懐妊出産しています。清盛は天皇の外戚となって権力をさらに強めていきます。
この頃が清盛の絶頂期ではないでしょうか。

しかし、少しづつ平家の運気に陰りが見え始めます。
清盛の跡取りであった嫡男・平重盛が病気で倒れると後白河法皇は所領を没収し復権を狙います。
しかし、そうはさせじと福原(神戸)の清盛が軍勢を率いて上洛しクーデターを起こします(治承三年の政変)。
主だった公卿、院近臣を解任し(能「玄象」に出てくる藤原師長もその一人)、後白河法皇を幽閉し院政は停止。清盛の娘の生んだ子が「安徳天皇」となって即位すると事実上平家独裁政権となって六十六か国ある知行国の半分までが平家一門に独占されました。
宗盛が総帥となった栄耀栄華の頃がもしかして「熊野」との花見でしょうか。

1180年5月。後白河院第三皇子・以仁王が挙兵。
長らく平家政権にいた「鵺」退治で有名な「源頼政」も反旗を翻しますが、宇治平等院で討ち死。
似仁王の令旨を受けて同年8月には伊豆にいた源頼朝が挙兵。9月には幼少期に「実盛」に助けられていた木曽の源義仲が挙兵。10月に上洛を目指す頼朝軍と富士川で激突するも平家あっけなく敗戦。
興福寺・園城寺(三井寺)も反平家の動きに同調したため、園城寺・興福寺・東大寺を焼き討ち。
これにより平家は仏敵となりさらに追い込まれてゆきます。南都焼討の総大将は重衡。後に一ノ谷の戦いで捕虜になり、能「千手」では捕虜となった重衡と千手の短くも儚い交流が描かれています。

1181年2月。この激動の最中に清盛が病死。
1183年5月。勢いに乗る木曽義仲が倶利伽羅峠で平家軍、重盛嫡男・平維盛を撃破。
1183年6月。篠原の戦いに勝利。斎藤「実盛」は平家方として参戦。義仲軍に敗れ戦死。ここを最後の戦いと決め、老将と侮れれるのも口惜しく、若々しく戦って死にたいと髪を染めて出陣。首実験で染めた髪が洗われて白髪に変わって、まさしく実盛とわかると、かつての恩人の死に義仲は落涙したといいます。

1183年7月。ついに義仲都へ上洛。平家一門は安徳帝を伴い都落ち。以仁王の反乱からわずか3年。
20年に及ぶ平家の栄華がここに終わる。

京都を制圧した義仲であったが、都の治安を掌握出来ず都人に顰蹙をかう。
平家追討の隙をついて後白河法皇の手引きにより源頼朝軍が上洛して来る。慌てて都に戻り後白河法皇に抗議をするも頼朝軍は都へと迫る。
1183年11月。義仲は後白河法皇と決裂して軍事行動を起し法皇を幽閉。
1184年1月。木曽義仲は征夷大将軍になる。しかし、都に迫る頼朝の先発隊、源範頼・義経軍と開戦し、滋賀県大津(粟津)で「兼平」らと共に戦死。ここに木曽義仲の短い天下取りの夢は消える。
源平盛衰記では、「巴」が兼平の妹として登場する。能では女性が薙刀をふるって活躍する唯一の演目。

義仲に押され一度は九州まで落ちた平家だが、四国に上陸し屋島を拠点として勢力を回復し始める。源氏同士の抗争の間に盛り返した平家は福原(神戸)まで進出。後白河法皇は平家追討の宣旨を出し、ついに頼朝の源氏と平家の戦いの火ぶたが一の谷で切られる。

1184年2月。一ノ谷の戦い。義経の鵯越の作戦で平家敗走。「敦盛」「経正」「忠度」「知章」「通盛」ほか平家一門の多くが戦死。海に逃げた平家の戦いはさらに「藤戸合戦」「屋島」「壇ノ浦」と続いてゆく。
今回の2日間の公演では、仕舞の「藤戸」までが上演されます。

ついでですが今年の私の自主公演「遠藤喜久の会」ではこの「藤戸」を能で上演します。11月25日です。
能では習いの曲になっていて重い扱いです。藤戸の戦に巻き込まれた漁師の母と子の物語です。
是非見に来てくださいね。気が速いけどちょっと宣伝(笑)
藤戸仮チラシ表1BUROGU
さて、一気に書くと、もうずっと戦いが続いていますね。嫌ですね戦争は。
現代は税金が高くても戦争がないだけ日本はよくなっているのでしょうか。ま、だからといって税金が上がるのは賛成できませんが。そうならないでよくなる方法を考えるのが現代の政治家さんじゃないかと思うんですよね。
武力も財力も必要なのはわかりますけどね。大変なのもわかりますけどね。皆なだって大変なんです(笑)
権力を持つと人は変わってしまうんでしょうか?それじゃ800年前とあまり変わらないな。我々は。
あ、すみません。話それました^_^;

話もどして、こんな一門が滅んでゆく戦争の最中のお話が、平通盛と小宰相局の物語です。
何時別れが来るかもわからい大変な時だからこそ、人は大切な人を大事に思い一緒にいたいと強く思うのかもしれません。昨年の東日本大震災以来、そういう事を思う方が凄く増えているとニュースでやっていましたっけ。

一ノ谷の決戦前夜。通盛と小宰相は二人きりで別れを惜しみます。
戦争で皆が戦支度をしている時に、女子と別れを惜しむ事の是非はわかりませんが、ツッコミ所も沢山あるのですが、通盛さんの人間的な優しさと弱さにも共感が持てます。好きだな、こういう人。

結局この戦いで通盛さんは討ち死にし、小宰相さんも亡くなるわけで、この二人を能の中では鎮魂して成仏させています。
今回800年以上前の人を演じるのですが、人間はそんなに進化もしてないし、もしかしたら退化してるかもしれないんだけど、今を生きる自分の中で共感したり感じたりする事があります。能の演技は饒舌に多くを語ったり感情的になったりしないのですが、それだから伝える事が少ないのではなくて、それだから言葉にならない多くの思いを非言語コミュニケーションで伝えていると思います。実は、そういうコミュニケーションの情報量の方が、言葉よりずっと多いんだよね。我々は。わかる人には全部わかるというお話。


そんなわけで今回の舞台は、精一杯生きて精一杯死んで見事に成仏したいと思います。それに、誰かが何かを自分なりに感じていただけたらなあと思います。


では舞台でお目にかかりましょう。よろしくお願い致します。