能の仏原(ほとけのはら)の仕舞を調べていたら、一念不生という難しい言葉に出会った。

仏の原というのは、平家物語に登場する白拍子、仏御前の故郷である。今日の福井県にある。

平家物語によれば、仏御前は幼少より仏道に専念し、故に後に白拍子デビューした時も仏の愛称で親しまれた。
やがて都で人気者になり、時の権力者、平清盛の元に押しかけるが、門前払いをされる。
それをとりなしたのが、すでに清盛の寵愛を受けていた白拍子、祇王であった。
しかし、こともあろうか清盛は仏を一目で気に入り祇王を追い出してしまう。
その上、仏御前が落ち込んでると、祇王のもとに再三使いをよこし、仏を慰めるために参上して舞を舞えと無理強いし、
結局、祇王は参上して清盛、仏御前の前で舞を舞うことになる。
しかも、その呼ばれた祇王の座る席は、寵愛を受けていた頃とはうって変わり、はるか下座の末席という屈辱だった。
それでも涙を押さえて詠ったのがこの歌。

仏も昔は凡夫なり  我らもついには仏なり  何れも仏性具せる身を  隔つるのみこそ悲しけれ

この時、一同が祇王の心中を思いやり落涙したという。
その後、祇王は世をはかなんで出家するが、実は、祇王を追い出す形のなった仏御前も清盛に翻弄され、祇王の一件を心苦しく思っており、やがて清盛の元を脱げ出しわずか17歳の若さで出家し、頭を丸め祇王の籠る寺にやってくる。
その覚悟に祇王は過去を水に流し、二人は和解し、共に念仏三昧の幸せな日々を過ごしたという。
諸行無常の浮世の中でようやくたどり着いたハッピーエンドである。

とても良い話である。
しかし、こうした美談が実際は史実であるかはわからない。。。
そもそも二人がいたのかどうかさえ。。。
また、この中で描かれる清盛像は女の敵の悪役キャラである。それもどうなのか。。。
平家物語成立の裏に、勝った源氏方への政治的配慮があったとも云う。
つまり、歴史も物語も作られる。

平家物語の二人の白拍子の美しいハッピーエンドの結末に作為を感じるのは、ひねた大人であろうか。

仏御前には、あまり書きたくないアンハッピーエンドの後日譚の伝承もある。
出家後のその後に故郷に帰りさらに過酷な運命が待ち受ける伝承。
能作者は、アンハッピーエンドの話を知ってか知らずか、仏の原で、悟り得た女として仏御前を再生し、美しい舞を舞わせた。
それは当時の人々の願いでもあったのだろう。
白山禅定の僧が出会う設定や鎮魂という事を考えると、きっと里に残る後日譚も知っていたのではないかとも思ったりする。
能の中では、美しい歌舞の菩薩のような仏御前が現れ、舞を舞い、

「一歩上げざる前をこそ仏の舞とは云うべけれ」

能のエンディングの最後のところで、この詞章を謡い仏御前は姿を消す。

その意は、「未だ舞始めない、その前の無の状態こそ、仏の悟りの心である。」

一念不生という境地をさすのだろうと謡曲大観にはある。
どんな妄念も起こらない境地。
無の境地というのだろうか。
華厳経に書かれた仏教用語で、禅などでも使われるが、調べてみるとどうにも要領を得ない。

妄念や、とらわれを解き放ち、自由を得た時、自らの仏性に目覚める。

こんな解釈でいいのだろうか。
妄念に囚われた人々に運命を翻弄された仏御前が最後に悟り得た境地。
それを語って幻は消え失せる。

余談。
禅の言葉というので調べてみたが、一念不生というのはおいそれと出来るものではないようだ。(当たり前ね)
そもそも、最近云われる事だが人間の脳は毎秒1千万bitの情報処理をしてるというから(これがどれほどのものかよくわからないけど凄く多いことは間違いない)、絶え間無く思考する脳を無にするのは大変だ。
人間は考える葦である。
ただし、言語を司る左脳の方が40bit程の情報処理で少なく残りは右脳というから、もしかすると言語はコントロール出来なくもないのか。
目を閉じ、静かなところで情報を遮断し、言語に寄らないイメージを想起して、右脳の情報処理を映像情報を自ら思い浮かべて統一コントロール。
瞑想では光芒をイメージすると云うが、
無意識下で勝手に想起される情報を、ひつのイメージを想起する事に集中してコントロールする。
完全に思考停止して無になるのは難しいだろうから、逆に無のイメージを作って考える。
一つの事に夢中になる。そんな感じかな。

無心になるというのは難しい。

さっぱりわからないわけですが(笑)

心を平穏に司るとは、なかなか難しそうです。

なので昔の人は、お経を読んだり、お題目を唱えたのかもなあ。。。


仏原仕舞の部分のオリジナル語訳

釈迦如来は入滅し、弥勒菩薩の出現はまだ先で、今の世は、無仏の中間のまるで夢のようです。
鐘も響き鳥も鳴き出し夜明けも近いですが、それでもまだ一夜の夢の内の
夢、幻の如きものなのです。
そして仏も人間も仏性具せる身で、その本質に違いがあるわけではないのです。

天に浮かぶ雲海の波も一滴の露より起こり、元に返せば何もなく、
袖翻すこの舞も、一歩舞い出す、その前こそが、本当の仏の舞いというものです。
そう謡い、消えてしまった。


さて、長物語になりました。今週の定期公演は土曜日ですお間違えなく。
そこで仕舞を舞いますのでよろしければお出ましください。➡️矢来能楽堂