能楽夜ばなし

能楽師遠藤喜久の日常と能のお話

舞台前記

夢醒めて

本日若竹能にて、能 邯鄲のシテを勤めさせていだきました。

五十年及ぶ栄耀栄華の壮大な夢でした。

楽しい時は一瞬で時が経ちました。

あっという間の五十年でした。

人生は夢 幻の如くなり。

きっとリアルな人生が終わった時も、悔いなく生きられれば同じような感慨を得るのでしょうね。

盧生と共に夢が醒め。
言葉ではうまく言えない悟りが私にもあって。

そしてまた明日から淡々と一歩一歩。

生まれ変わった気持ちで歩みたいと思います。

これは終りと再生の物語でもあるのかもしれませんね。


そんな事を思う今夜でした。


そして、

夢から醒めた今、

またこれも夢なのかもしれないと。。。。


ご来場。こ観能誠にありがとうございました。




盧生 夢の宴

さていよいよ明日は若竹能 葛城大和舞と仕舞五番、そして私がシテを勤めます邯鄲。

明日は福王流 下宝生流のおワキ方が、ずらり9名も出演致します。

そのうち6名は邯鄲のおワキ方。
邯鄲の能は、ワキ方の登場人物が大変多い能でもあるのです。
勅使やお輿の従臣。
皇帝の宴では、子方と共に臣下役のおワキが狩衣を着て位並んで、宴に華を添えます。
能としては、豪華な宴なのですね。

明日は、盧生と共に夢の宴を楽しんでいただけたらと思います。

当日券もございます。
一時開演で、私の出番は3時前後です。

明日はまさに夢のような時間を過ごすことでしょう。お楽しみに。








めぐる四季 雪月花 出演のお知らせ

平成28年2月28日 九皐会若竹能 めぐる四季 雪月花にて、邯鄲のシテを勤めさせていただきます。
九皐会ホームページ
50年の栄耀栄華を、たった広さ1畳の空間の中に凝縮して舞う。
この曲のみの舞の演出が見どころであり、演じる難しさがあります。
凝縮した中に無限の広がりを写すという、これぞ日本の文化美意識。
能の中で描かれる中国を舞台にした物語は、壮大なスケールを謡いで表現してゆく作品が多いのですが、この邯鄲もその一つ。
また、夢と現実の世界が一瞬で切り替わる演出も能ならではの面白さがあります。

年末年始は、この曲とじっくり向き合いたいですね。
乞うご期待。



90% 明日の井筒

私がシテを勤める時は、滅多に雨が降りませんが、明日は珍しく降水確率90%。

時にはそんなこともありますか。
なにか珍しいことでも起こるかもしれません。乞うご期待。

明日の井筒の女が、最初に立つ舞台のポジョンを常座(じょうざ)といい、舞台中央辺りを正中というのですが、明日の前半のこのポジションの占有率は90%。

降水確率と同じです。

さて、どんな雨が降るのか降らぬのか。


ご来場の皆様は、どうぞ足元滑りやすいので、お気をつけて。

どうぞよろしくお願いいたします。




11月8日 矢来能楽堂で井筒を舞います。

本日は、晴れ渡る晴天の中、様々な催しを振り切って所沢航空記念公園彩翔亭にご来場賜りましてありがとうございました。
毎回、話込んで伸びるので、講座時間を30分伸ばすようにいわれて、伸ばしてみたら、それでもさらにオーバーでしてしまいました。本日、お越し下さった皆様は、きっと能「井筒」は、心を澄ましていろんなことを想像しながら、またいろいろな角度から能舞台を楽しんでご覧になれると思います。

来れなかった方は、是非、伊勢物語、4段、17段、23段の三つは、ちょっと目を通して来られるといいと思います。ついでに24段も。

特に23段は、この能の下敷きになったお話で、動かぬ居クセで地謡が謡語るのは、この23段場面です。

また後シテの初句の謡は、17段。序の舞を舞い、昔を想う場面では4段。などなど。

伊勢物語に挿入されている和歌や物語に少しひねりを加えて謡い込まれて出てきます。

基歌やその物語のイメージ、業平や紀有常の娘のイメージを少しつかんでいると、また見方が変わります。

おお、あの歌をこう入れてたか! おお、あの段のイメージをここに! って具合に、少しマニアックに楽しめると思います。

また、是非、詞章を一読してご覧なられことをお勧めします。聞き流すには勿体ないほど、伊勢物語ワールド満載の台本なのですね。 この台本の作者は、間違いなく伊勢物語とその注釈書などを横に置いて、能台本を創作したに違いなく、言葉遊びの面白さも感じられるかと思います。

今回、調べていて読んだ本に、「暁」の謎を解く(著者 小林賢章)という本に出合ったのですが、暁は朝ではないという考察がとてもしっくりきました。
朝方では、どうも感じが違うと私も思っていました。

前シテの初句 暁毎の閼伽の水は、 やはり深夜の方がしっくりします。

この暁の時間は、この本以外も、違う時間だという事を聞いたことがありますが、いずれも朝方ではないという説で、その方が私は出ていきやすいです。

それにしても、この井筒は、脇の登場から、シテの女の登場で、時間軸がずれるというか、スリップするし、井戸から水を汲むとか、業平の塚に花を手向けるなんて冒頭の登場場面も全て演出的には省略されているし、クセは舞わないし、物語は伊勢物語(前述)を知っていることを前提に進むし、型はそぎ落とせるところはみなそぎ落として動きを少なくしているので、この曲を、世阿弥作の凄い名曲だと聞いて、初めて能を観る人が見たら、結構面喰うと思いますね。
観客の想像力に物凄くゆだねているので。

勿論、なんの予備知識なくても舞台は観れますけど、謡われる言葉も、節が付けば伊勢物語の内容だって、違って聞こえるわけで。

まあ、見方様々なので、ここではあまり書きませんが。


今回はそんなことを、自分でも学ばせてもらいながらの講座でした。

お時間ある方は、是非、ひと調べしてくると、好奇心をくすぐる面白い事に沢山出会えると思います。


ま、わたしのブログを読む人は、きっと調べるのはお好きかと思いますが。。

九皐会は、まだ自由席あるそうなので、世阿弥が上花也といったこの名作を是非、私のシテでご覧頂ければと思います。

チケットは観世九皐会事務所にお尋ね下さい。


さて、当日の面はどうしようかなあ。
ま、師匠とは相談してはあるのですけどね。なかなか最後まで悩ましい選択です。
自分の力量もありますしね。
ま、当日のお楽しみです。

どうぞ宜しくお願い致します。





恒例 文化の日は所沢彩翔亭茶室で楽しむ能楽講座

彩翔亭20151103susuki編集中

恒例になりました11月の文化の日の、茶室で親しむ能楽お話講座。
所沢航空公園という駅前に広がる自然豊かな公園内にある茶室での催しです。

今回は、11月の矢来能楽堂観世九皐会の定例公演で私が舞う能「井筒」を中心に、気軽なお話講座を予定。
来場の方々と、少し井筒の謡いの手ほどきなんかも出来たら、少し能台本が身近になるかなと考えています。

この「井筒」という曲は世阿弥の作った最も美しい曲目のひとつといわれます。
在原業平と紀有常の娘との恋物語を物語の核として、
前半は、居クセと呼ばれるシテが舞わずに地謡が語るという演出。
後半は、序の舞という静かで優美な舞に女の恋心を表現する雅な作品です。

背比べをして育った男女がやがて大人になり、初々しい恋人になります。
しかし、男は他にも通う女が出来てしまう。
その時、女はどうしたか。

男の理想?ともいえる可憐な対応に、男はほだされるのです。

その恋心をどう舞うか。そのあたりが今回の見どころになります。

茶室ですが、椅子席をご用意してますので、気軽に来てください。また、ここの喫茶室には和菓子と抹茶の販売もしていますので、秋の庭園とお茶を楽しんでから、ゆっくりと能のお話を聞いていただけたらと思います。

この講座の申し込みは、チラシの問合せ先担当者にお願いします。

なお、矢来能楽堂定期公演についての申し込みお問い合わせは、能楽堂ホームページをご覧下さい。➡能楽堂リンク

仕舞 仏原(ほけのはら) 一念不生

能の仏原(ほとけのはら)の仕舞を調べていたら、一念不生という難しい言葉に出会った。

仏の原というのは、平家物語に登場する白拍子、仏御前の故郷である。今日の福井県にある。

平家物語によれば、仏御前は幼少より仏道に専念し、故に後に白拍子デビューした時も仏の愛称で親しまれた。
やがて都で人気者になり、時の権力者、平清盛の元に押しかけるが、門前払いをされる。
それをとりなしたのが、すでに清盛の寵愛を受けていた白拍子、祇王であった。
しかし、こともあろうか清盛は仏を一目で気に入り祇王を追い出してしまう。
その上、仏御前が落ち込んでると、祇王のもとに再三使いをよこし、仏を慰めるために参上して舞を舞えと無理強いし、
結局、祇王は参上して清盛、仏御前の前で舞を舞うことになる。
しかも、その呼ばれた祇王の座る席は、寵愛を受けていた頃とはうって変わり、はるか下座の末席という屈辱だった。
それでも涙を押さえて詠ったのがこの歌。

仏も昔は凡夫なり  我らもついには仏なり  何れも仏性具せる身を  隔つるのみこそ悲しけれ

この時、一同が祇王の心中を思いやり落涙したという。
その後、祇王は世をはかなんで出家するが、実は、祇王を追い出す形のなった仏御前も清盛に翻弄され、祇王の一件を心苦しく思っており、やがて清盛の元を脱げ出しわずか17歳の若さで出家し、頭を丸め祇王の籠る寺にやってくる。
その覚悟に祇王は過去を水に流し、二人は和解し、共に念仏三昧の幸せな日々を過ごしたという。
諸行無常の浮世の中でようやくたどり着いたハッピーエンドである。

とても良い話である。
しかし、こうした美談が実際は史実であるかはわからない。。。
そもそも二人がいたのかどうかさえ。。。
また、この中で描かれる清盛像は女の敵の悪役キャラである。それもどうなのか。。。
平家物語成立の裏に、勝った源氏方への政治的配慮があったとも云う。
つまり、歴史も物語も作られる。

平家物語の二人の白拍子の美しいハッピーエンドの結末に作為を感じるのは、ひねた大人であろうか。

仏御前には、あまり書きたくないアンハッピーエンドの後日譚の伝承もある。
出家後のその後に故郷に帰りさらに過酷な運命が待ち受ける伝承。
能作者は、アンハッピーエンドの話を知ってか知らずか、仏の原で、悟り得た女として仏御前を再生し、美しい舞を舞わせた。
それは当時の人々の願いでもあったのだろう。
白山禅定の僧が出会う設定や鎮魂という事を考えると、きっと里に残る後日譚も知っていたのではないかとも思ったりする。
能の中では、美しい歌舞の菩薩のような仏御前が現れ、舞を舞い、

「一歩上げざる前をこそ仏の舞とは云うべけれ」

能のエンディングの最後のところで、この詞章を謡い仏御前は姿を消す。

その意は、「未だ舞始めない、その前の無の状態こそ、仏の悟りの心である。」

一念不生という境地をさすのだろうと謡曲大観にはある。
どんな妄念も起こらない境地。
無の境地というのだろうか。
華厳経に書かれた仏教用語で、禅などでも使われるが、調べてみるとどうにも要領を得ない。

妄念や、とらわれを解き放ち、自由を得た時、自らの仏性に目覚める。

こんな解釈でいいのだろうか。
妄念に囚われた人々に運命を翻弄された仏御前が最後に悟り得た境地。
それを語って幻は消え失せる。

余談。
禅の言葉というので調べてみたが、一念不生というのはおいそれと出来るものではないようだ。(当たり前ね)
そもそも、最近云われる事だが人間の脳は毎秒1千万bitの情報処理をしてるというから(これがどれほどのものかよくわからないけど凄く多いことは間違いない)、絶え間無く思考する脳を無にするのは大変だ。
人間は考える葦である。
ただし、言語を司る左脳の方が40bit程の情報処理で少なく残りは右脳というから、もしかすると言語はコントロール出来なくもないのか。
目を閉じ、静かなところで情報を遮断し、言語に寄らないイメージを想起して、右脳の情報処理を映像情報を自ら思い浮かべて統一コントロール。
瞑想では光芒をイメージすると云うが、
無意識下で勝手に想起される情報を、ひつのイメージを想起する事に集中してコントロールする。
完全に思考停止して無になるのは難しいだろうから、逆に無のイメージを作って考える。
一つの事に夢中になる。そんな感じかな。

無心になるというのは難しい。

さっぱりわからないわけですが(笑)

心を平穏に司るとは、なかなか難しそうです。

なので昔の人は、お経を読んだり、お題目を唱えたのかもなあ。。。


仏原仕舞の部分のオリジナル語訳

釈迦如来は入滅し、弥勒菩薩の出現はまだ先で、今の世は、無仏の中間のまるで夢のようです。
鐘も響き鳥も鳴き出し夜明けも近いですが、それでもまだ一夜の夢の内の
夢、幻の如きものなのです。
そして仏も人間も仏性具せる身で、その本質に違いがあるわけではないのです。

天に浮かぶ雲海の波も一滴の露より起こり、元に返せば何もなく、
袖翻すこの舞も、一歩舞い出す、その前こそが、本当の仏の舞いというものです。
そう謡い、消えてしまった。


さて、長物語になりました。今週の定期公演は土曜日ですお間違えなく。
そこで仕舞を舞いますのでよろしければお出ましください。➡️矢来能楽堂















25日は藤戸へ 公演情報更新

25日の公演リハーサル、いわゆる申し合わせが終わりました。
いよいよです。
自主公演だと、私の場合は恒例の当日パンフレットのデザインから、お弁当の手配までなんでもいたします。
秋は公演が立て込んでいるので結構大変でした。
なので来年の秋の公演はやめて、春に次回公演をすることにします(笑)

今日は早朝から朗読のリハーサルから始まり、能楽堂に飯島さんの美しい声が響き渡りました。
声が美しいって魅力ですよねー。
今回は、解説風朗読という、前回とは違ったクールな飯島さんです。

能は、国川さん、鵜沢さんという盤石の囃子で、地謡編成も通常と違い同世代の他門のメンバーで組ませていただきましたが、力強く緊張感がありいい感じでした。6人地謡でもボリュームオーバーの若い力をビンビン感じましたね。そして師匠と兄に後見をお願いし、私も精一杯勤める所存です。佐々木盛綱というのは、そんなに年のいった武者ではないと思い、共演の多い野口能弘君に頼みました。

当日の面装束も決まり、父が演じた時とは違う装束の取り合わせにし、面は師匠のお勧めでプレ講座で来ていただいた時にお見せした面とも違う痩せ男の面になりました。
プレ講座の時は、どちら方というとおどろおどろしい痩せ男や蛙などの面をお見せしたのですが、これだと演劇的なインパクトはあるんですが一番最後のところの場面ががなかなか難しいなと思っていました。が、今回の面は品おのある面相なので、彼岸に渡れるかもしれません。
果たして成仏なるのかならぬのか。当日が楽しみです。

チケットは、矢来能楽堂
正面場内のか列6列目までのシート席は完売しました。
中正面シート席完売
中正面ベンチ数席有。
脇正面も残り数席有。
正面桟敷1列目座布団背もたれ附き6000円2席有
桟敷席正面ベンチシート席5000円と自由席4000円学生自由席2000円はまだ余裕がございます。
申し込み03-3268-7311矢来能楽堂ほか、私のホームページからメール下さい。
カンフェティチケットオンラインは前日の夜に閉めさせていただきます。
よろしくお願いします。

とうじつは、能台本の現代語訳文おつけいたします。

松虫

日曜日の神楽坂矢来能楽堂の定期公演で、仕舞「松虫」のクセを舞います。
クセとは曲と書きますが、一曲の中で地謡の謡どころ聴かせどころの音曲部分で、今風にいうと音階や言葉のリズムに変化のある、いわゆる‘くせ'のある一節です。舞があればクセ舞ですし、なければシテは座ったまま地謡がメインの居グセとなります。
松虫は舞クセですね。
この曲、大阪の阿部野辺りの話で、今も駅名や塚が名残を留めています。秋の野原にリンリンと鳴く松虫。
その松虫の鳴く野原で友を亡くし、その後を追った男の物語。
男の友情をテーマにしていて、それが現代人には濃厚とも感じられるので様々解釈をされていますが、この曲舞の部分では、友と酒を酌み交わした思い出を、友を偲びつつ、中国の故事、菊慈童の菊水や、虎渓三笑のお酒の話を引き合いに出しながら謡われて行きます。
そして誰も彼も酔って全ての木々も紅葉していると舞い語ります。
しかし、ただ松虫だけが友を待って一人鳴いている。その虫の音は友を待ち偲び思う自分の心と秋の野に響き合うのです。
能になると囃子や音曲や舞いの華やかさがあって寂しい感じはあまりしないのですが、テーマには哀愁があります。
今回はお仕舞いです。


この松虫の事を考えていたら、若くして他界した幼馴染の親友の事を思い出しました。
学生時代には本当によく朝まで酒を酌み交わしたものでした。
久しぶりに友を思い出しながらお酒を静かに呑みますかね。

友を待ち詠をなして舞い奏で遊ばん



伊勢物語の世界を能で楽しむ 杜若

夜ばなし写真館→五月五日更新

連休は皆さんお出かけですか?私は稽古や雑事でずっと東京ですね。
三河には行けないかな。どなたか杜若の写真送って下さいませ!

さて5月の能、杜若「かきつばた」の左脳的解説です。

東国行脚の僧侶が、三河の国あたりで杜若の花が咲き乱れている沢に佇み見とれていると、一人の若い女が声をかけてくる。
「お坊さん、その沢で何してるの?」
僧侶は女に言葉を返す
「いや、あんまり杜若の花が見事なもので見とれてしまってね。ここはいったいどの辺りですか?」
女は、ここが伊勢物語に読まれた八つ橋の杜若の沢であり、「かきつばた」の5文字を句の頭に読み込んで在原業平が歌を詠んだ故事を語る。
そして、僧侶を自分の庵に案内して一夜の宿を貸す。
その夜、女は在原業平と高子の后の舞装束を身に着け、自分は杜若の精霊だと名乗って僧侶に伊勢物語を舞い語る。そして、業平は歌舞の菩薩の化身であり、その歌によって草木である杜若の精霊も成仏したといって消え失せる。すべては僧侶の見た幻だったのか、現実だったのか・・・・。

この能は、僧侶が出会った若い女が、実は自分は杜若の精霊だと名乗り(*高子の后だとは名乗らない)、しかし、なぜか業平と高子の衣装を形見として持っていて、それを着て舞い語り、その姿はあたかも高子であり、業平のようであり、それがさらに歌舞の菩薩の様相を呈して、最後は杜若の草木の精霊として初夏の朝焼けの訪れとともにたおやかな姿を見せて成仏して昇天するという、実に不思議な展開なのです。

現代劇のような理路整然とした人物キャラクターではないので、つかみどころがなく、初めてこの能を観る方は、杜若の女は綺麗だけどよくわからないと思われれるかもしれません。
女が業平の恋人二条の后高子の霊だとはっきりと名乗ればわかりやすいのですが、そこはそうせずに杜若の精と名乗る。
普通の能の物語構成ならば女は高子の后の霊であり旅僧に弔いを求めますが、この能の女は旅僧に回向は頼まず業平よって成仏したことを語り自己完結して消え失せる。
しかし杜若の花こそは二条の后の象徴でもあるわけで高子の妃が二重写しになっている。

あえてキャラクターを特定せずに幾重にもイメージを重ね合わせる事によって出てくる多様なイメージ。その中心は「杜若」に象徴される「花」のイメージ。
杜若の花、若い女、杜若の精霊、高子の后、業平、伊勢物語、陰陽の神、歌舞の菩薩。
それは、可愛らしく、美しく、高貴で、色もあり、荘厳で、神々しくもあり、しかし、初夏の夢のような青紫の「花」でもあり、そこに「恋」という要素を下味として加えて次々に残像を残しながら複雑に変化して、最後は草木国土皆成仏して完結します。
この曲のシテのどこか掴みどころのないところこそが、この曲の魅力と言えるのではないでしょうか。

この能の原典になっているのが伊勢物語です。
業平と高子の伊勢物語の世界を能で楽しむ。まさにそんな曲ではないでしょうか。

というわけで、伊勢物語を読んでからこの能を観ると間違いなく面白さ倍増なのですが、およそ聞き及びたる通りを、少しだけ触れておきます。

伊勢物語は平安時代に書かれた125段からなる歌物語。
「昔男ありけり」で各段の冒頭が始まる短編の恋物語。
各段に歌が詠まれているのが特徴。
作者不明、成立も千年以上前。実在の人物、在原業平がモデルとされる。
この在原業平さんは、平城天皇の孫、桓武天皇の孫にあたる皇族でしたが、臣籍降下して在原姓を名乗る。
伊勢物語にも様々な女性が登場しますが、この能に登場するのは、藤原高子。
伊勢物語の最初の方に登場します。
藤原摂関家の血筋で、清和天皇のお后候補であったにもかかわらず、五節の舞の時に業平に見初められて恋仲になる。
(能ではこの話にかけて、杜若の女がその時の二人の装束を形見として持ち合わせ、自ら着て現れ後半を舞語る。それは何と言っても夢幻の精霊の為せる業ですから、ディズニーの魔法使いみたいになんでもありなわけです)

伊勢物語(5段.6段)ー高子は深窓の令嬢で、皇太后の屋敷に住んでいた。そこへ人目を忍んで男は通ったが、やがて見張が立つようになって逢えなくなる。しかし、とうとう女を盗み出す。しかし、結局は女は連れ戻されてしまった。
(予定通りこの先、高子は清和天皇の后となる。)

この後、伊勢物語の主人公、昔男(業平)は東に下る。
その原因は書かれておらず定かでないが、高子とのスキャンダルで業平は藤原摂関家と折り合いが悪くなったのだろうという説がまことしやかにある。
そして旅に出た7段、そして8、9段の様子が能のクセ舞にも読み込まれています。
なので伊勢物語を知っていれば、能の詞章にイメージが広がってゆくわけです。
そして9段目が三河の国八つ橋(今の愛知県知立市)の場面。
杜若の群生するところで読んだ
「唐衣着つつ馴れし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思う」の歌の場面が、能「杜若」 の冒頭の旅僧が八つ橋にさしかかるシーンと重なります。
昔男の歌は、おそらくは都に残した高子を思い、慣れ親しんだ妻を都に残してこんなところまで来てしまった旅の寂しさを思う恋人への恋慕の歌です。

能では、この八つ橋の場面を台本の導入部に据えてイメージを重ねて旅僧が登場させ、杜若の花のイメージに女性を重ね合わせて里女が現れ、さらに高子の后、業平とイメージを連鎖させてゆきます。

能の中盤にある地謡のクリ地は、15段。続くサシは1段の初冠、そしてクセの冒頭は7段、8段と原典の言葉が歌い込まれ、さらに八橋の9段、クセ謡いの後半には17段ー人待つ女(井筒の女)、45段ー物病みの女、64段ー玉簾の女と、業平の他の恋人たちの名もチラリと登場し、そうした女性達も業平によって救われたという業平信仰のエッセンスも加えてクセの地謡いを謡あげます。
さらに台本には4段の「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身は一つもとの身にして」
60段の「さつき待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」と、全編に伊勢物語のエピソードと歌が散りばめられているのです。伊勢物語ファンにはたまらない作品なのです。

まるで言葉とイメージで出来た万華鏡を覗くような感じですが、舞台の進行は煌びやかな舞装束を着て現れた女がひたすら舞い続けるので、言葉をよく聞いていないと真っ直ぐに通り過ぎてしまうかもしれません。
基本的には言葉によってイメージの変化はもたらされるかと思います。
序の舞も太鼓の序の舞であり、同じ伊勢物語を題材にした秋の「井筒」とくらべるとイメージがずっと明るい。まさに初夏の杜若ですね。

というわけで左脳的な解説はここまで。
ちょっとわかり辛かったですね。すみません。
予備知識が沢山あればあったで能の見方は変わるし面白いのですが、なくても感じていただける舞台を勤めたいと思います。

ここからは右脳解説に切り替わります。
舞台進行では、唐織の女姿で現れた里の女が、自らの庵に僧侶を招き入れて装束を変えて再登場しますが、この衣裳替えを舞台上でするのも能独特です。やがて業平の冠と高子の舞装束を身につけた、どこか中性的な雰囲気の姿で歌舞の菩薩のように舞語ります。金糸を織り込んだ紫の長絹が視覚的な美しさをもたらします。この曲は、いわゆる二段クセといって舞い語る部分が長く、井筒や野宮と違い謡いだけを聞かせるのではなくシテは舞い続けます。まさしく歌舞の菩薩というにふさわしく動きのある舞台です。その舞いと伊勢物語が散りばめられた詞章と四拍子の囃子が重なって中盤からは目にも耳にも華やかな舞台を作り出します。

というわけで伊勢物語の世界を耳と目で楽しんでいただけたらと思います。
連休なんで今日はいささか理屈っぽく長くなりました。
言葉にするといろいろありますが演者としては観念的になりすぎずお話したことは全部忘れてスッキリと舞えたらと思います。
宜しくお願いします。
公演情報➡ホームページ








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