さて九皐会定期公演も終わったので、8/25日に所沢ミューズで行われる「触れてみよう能の世界」で上演する土蜘蛛について書いてみよう。

ツチグモtext2

写真は、以前行われた時のもので、今とは劇場の舞台だいぶも様子が少し違うがイメージはつかめると思うのでupします。
今回は好評につき再演です。

土蜘蛛の魅力は、なんと言ってもその物語の展開の分かり易さだろう。
いわゆる能の構成としてよくある前半と後半に物語が別れる複式夢幻能と呼ばれる能は、前半は今は亡き主人公の亡霊が別の何物かに化身して登場し、旅の人と出会い、さも生きている人の如く会話し、今は亡き主人公(実は自分の事)の物語を語る。そして、あまりに詳しい描写ぶりに旅人に訝しがられると、実は自分はその者の化身であると正体を匂わせて消える。
後半には、その亡き主人公が、生きていた頃の艶やかな姿で登場して、ありし日の生き生きとした姿を見せ舞を舞う。
やがて明け方になると夢幻の如く消え失せるというものが代表的な構成かと思う。
未来から過去の物語を描くという手法が多く、しかも主人公はすでにこの世にいない人間である。

現代の芝居やドラマの時間進行と違った展開なので、慣れないと物語の流れがわかりにくいのだ。

ところがこの土蜘蛛は、登場人物は皆生きている人で、物語の進行も普通の時間軸に沿って進む。
しかも口語の会話のセリフが多いので、古語には違いないが、意味が聞き取り易く筋が大変わかりやすい。
現代劇に近い感覚で舞台を楽しむことが出来る。
小中学生に始めて見せる能にも選ばれるのは、この辺りのことがある。


では筋を簡単におってみよう。

最初に源頼光が登場し寝所に見立てた台にくつろぎ、袖に衣をかけられ病床に伏す様子を見せる。
出囃子が鳴り、侍女の胡蝶が典医の薬を持って見舞いに来るが、頼光は、日に日に弱りこのままでは寿命が尽きそうだと弱音を吐く。
それを胡蝶が看病する場面が描かれる(舞台上では、頼光に寄り添ったりせず、地謡が様子を語り歌い)やがて胡蝶は退出し時間が経過する。

一人病に伏す頼光の館に不審者がやってくる。
この悪役であり敵役が、この曲の主役たるシテの土蜘蛛が人間の僧侶に化けた姿だ。
この曲では素顔で演じる。

「いかに頼光!おん心地はなにとござそうろうぞ」と呼びかける。

頼光は、夜更けに現れた不審な僧侶に問いただすが、怪僧は、薄ら笑いを浮かべて近づいくる(演技としては笑わないけど、そんな心持ち)
やがて突然蜘蛛の千筋の糸を投げかけ攻撃してくる。
このところの頼光の謎の病気もすべて、この土蜘蛛の成せる厄であったのだ。
頼光は枕元に置いてあった源氏重代の刀、名刀「膝丸」で応戦し、怪僧にひと太刀浴びせると、怪僧は血を吹き出しながら消え失せる。(舞台では血は出ない)

館の異変に気づいた従者「ひとり武者」が、駆けつけると既にあやかしの姿はなく、血の痕だけが寝所から館の外へと続いていた。

頼光は、たった今の出来事を語って聞かせると、一人武者は血痕を追って追撃に立ち上がる。

かくして追撃隊がやってきたのは、土蜘蛛の住む塚であった。
そして、いよいよ追撃隊と本性を現した土蜘蛛の決戦が始まる。

この最後の戦闘場面は、力強い地謡と囃子の掛け声で奏され、舞台上が白くなる程の蜘蛛の糸を投げるので、大変見応えがある。
勧善懲悪のわかりやすいストーリーとテンポの良い舞台進行。

私が学生の頃、この能をワクワクしながら観たのをよく覚えている。
8月25日に所沢ミューズで行われる「触れてみよう能の世界」では、この土蜘蛛を上演する。
頼光は、兄遠藤和久が演じ、私が土蜘蛛を演じる。
是非見に来てください。

お申し込みは所沢MUSEへ







さて、この土蜘蛛は、
「葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と自らの素姓を語るのだが、土蜘蛛とは実は、化け物でも妖怪でもなく朝廷に恭順しなかった土着の氏族であり原住民族である。。

話し合いや金銭解決がなかった当時、武力による一方的な統制に従わなかった氏族は、滅ぼされ土蜘蛛として貶められ歴史の闇に葬られた。
やがて時代を経て妖怪変化として語られていった。
一説には、金鉱を持つ山の民であり、新勢力の朝廷の資源争奪の標的とされたとある。
勢力拡大の戦争の真の目的は資源でありお金であるが、それを隠しイデオロギーや正義の名の下に相手を悪者とし貶めるイメージ戦略がとられるのは、この現代の日本や世界でも似たような事は幾らでもあるのではないか。
そうして滅ぼされた民族の怨念が能の中に息づいている。


源頼光とは、源を姓に持つ朝廷の生え抜きの武士であり、藤原道長に仕えた誉高き朝家の守護である。

かつて朝廷に滅ぼされた民族が恨みを持ち、その怨念が土蜘蛛の精魂となり、その末裔に復讐しようとするが、逆に息の根を止められるというのが、この曲の隠された筋である。

こう書くと、勧善懲悪のヒーロー物語にいささか影を投げかけるのだが、なぜその悪役たる土蜘蛛が主役足り得るのか。
そこに能の秘密があり日本人独特の精神構造があると思う。

能は古くは為政者によって主催される芸能であった。
その能が為政者の賛美喧伝よりもむしろ、反政府勢力を主人公にした能を多く上演した。

怨霊鎮魂という言葉で簡単にひとくくりにしていいのかはわからないが、そこに慰霊と追悼と鎮魂があることはまちがいない。
敗者の正義を讃え勝者の悪をいうわけにはいかないから違う形にして物語るのだと思う。
勝者たる為政者はわずかであり、ほとんどは従えられた民衆なのだから
こうしたメンタルケアを手を替え品を替え、ある時は芸能によって行われたのは当然といえば当然だ。
それが我々日本人にとって精神的な秩序を回復する重要な手順なのかもしれない。


さてなんだか話があらぬ方に飛んだ。
例により聞きかじり程度のお話だから、そんなこともあるのかね程度に軽く読み飛ばしてもらいたい。


でも、実際の能の舞台は、おどろおどろしい感じは全くなく、単純にスカッと見れる面白い曲なので、楽しんでご覧下さい。