日曜日の定期公演も直前に迫りました。
私がシテを勤める阿漕の台本の超訳をざっと駆け足で。

九州の宮崎に住む男が伊勢神宮の参詣を志して、船旅で途中所々を巡って伊勢の阿漕が浦までやって参ります。
これがいわゆるワキの道行という場面です。
(今回ワキをお勤め下さるワキ方の髙井さんは、下掛り宝生流の役者さんので、観世流謡本の台本セリフとはちょっと違うところがありますので、あらかじめお断りしておきます。)

さて今日の「津」のあたりの海際に上がって、所の人に様子を聞こうと通りかかる人を待っていると、一人の漁師(前シテ)がやってきます。
シテが登場すると、しばらくはシテの独白の謡い語りがありまして、それからワキの旅人との会話になります。

漁師「我が衣は、波で濡れたんじゃない。自分の苦しみと愚痴の涙で濡れたのだ。それはいつだって乾くことはない。一年中悲しみの秋にいるようなものだ」
  「生きていくために苦しい働きをするのは自分だけじゃないが、同じ苦しくてもせめては人間らしい百姓だったらまだましだったのに、なんだって自分は殺生をする家に生まれ、明けても暮れても物の命をとっているのは悲しい事だ。前世の戒行が悪いのか、愚かな事だと思いながらも、これも浮世を渡る仕事だからと、今日もまた釣りに出かけるのだ」

のっけからシテの愚痴であります(笑)。能のシテは、曲にもようるけど、ぼやくことが意外と多い。で、過酷な運命に生きるのは前世の行いが悪かったから仕方ない。誰を恨む事も出来ないけど、しんどいなあーってぼやく。
人間は転生輪廻して、前世でやった行いを逆転して今世で受けるという考え方が、普通に語られています。だから、今なんかひどい目に会うのは、前世の報いだから自分のせいなんだよね。自分が悪かったのだから仕方ない。それを清算するために起こった事だから、甘んじて受け入れて生きて行こうという考え方ですね。だから、今ひどいことすると、それは来世に持ち越されるから襟を正していこうって事になるわけです。
こういうのって現代人にはどう受け止められるのでしょうね。人の魂は、この世だけでないよ。前もあるし後もあるよ。現世利益のみを追及してはいけないよ。死んだらひどい事になるよと。
科学では未だ解明されない話ですが。実際はどうなのでしょうね。
能の中では、普通に死者の亡霊が現れて物語りますからね。霊魂なんて存在しないでは、スト―リーが成立しないのであります。

さて台本に話を戻します。
旅人「すみません、お爺さん、ちょっとお尋ねしていいですか」
漁師「私の事ですか。なんでしょう」
旅人「この浦は、なんというところですか」
漁師「ここは阿漕が浦と申します」
旅人「ああ!ここがあの阿漕が浦ですか。
   昔の和歌に読まれた「伊勢の海 阿漕が浦に引く網も 度重なれば顕れにけり」と詠まれた阿漕の浦なのですね。やあ実に面白い」
漁師「おお、風流な旅のお方じゃ。この土地の歌ですからわたしももちろん知っていますよ。それから、かの古今和歌六帖に詠まれた歌に
(逢う事も阿漕が浦に引く網も度重なれば顕れやせん)と男女が逢う事も密漁も度重なれば知られてしまうと詠まれました。そんなふうに歌にまで詠まれた伊勢の漁師ですから、軽々しく見えても卑しんではいけませんよ。」
旅人「なるほど、名所旧跡に住み慣れて、年を経た漁師ならば」
漁師「漁師の藻を焼く潮煙をみても風雅なこころがわいてくるというものです」

とまあ、職業による身分の上下があった当時のお話ですが、この漁師のお爺さんと旅人との出会いの中で、和歌が詠みこまれて来るところが、とても洒落た風流な会話なのですね。この後の地謡も含め、阿漕が浦のさび錆とした中にも風流な景色が描かれるわけです。

さて、このあと旅人の問いに応えて、漁師は、阿漕の浦のいわれとなる、漁師殺害の顛末を語ります。
かいつまみますと、ここは伊勢神宮の為の魚を捕るところで禁漁区であったわけです。
しかし、神様の御加護なのか、大変よく魚が集まる。
そこで漁師たちは何とかここで漁をしたいとおもうのですね。すなどりをのぞむというセリフがこれです。
しかし、固く禁漁にしていた。ところが阿漕という漁師はその禁を犯して密漁を重ね、ついに人に知られてこの浦にの沖に簀巻きにされて沈めれてしまったのです。
ただでさえ、殺生戒の罪を犯す漁師なのに、さらに罪を重ねて苦海に沈み、その上死んだあとまでも「阿漕、阿漕」と悪名を残し、さらに地獄で責め苦にあっているのです。どうか、弔って下さいと、旅人に手を合わせ自分がその阿漕の亡霊であること明かします。

さらに西行法師が出家前の高貴な女性との恋の話の中でも、阿漕であろうと、再びの逢瀬をサラリと断られる話が語られ、なんか、そういう悪い使われ方ばかりなんだよなー俺の名前はと嘆くわけです。この西行の出家前の名前(憲清のりきよ)の話は落語にもあるそうですね。
今でも「あこぎなやつよのうー」なんて時代劇にも出てきますものね。お気の毒。

さて旅人は大変驚きますが、これも前世からのあなたと私の因縁だと思いますからどうぞここに泊まって下さい。と亡霊に云われます。
そうしていると、いつの間にか日が暮れかかり、潮煙が立ち込めると思うと海に漁火が、ぽおっと灯ります。
亡霊は「さあ網の綱をだぐり寄せよう」といって海に入り浮きつ沈みつしているうちに、突然として風が強くなり、波が立って、漁火も消え暗い荒波が押し寄せ「これはどうした事だ!」という亡霊の叫び声が聞こえたかと思うと亡霊は真っ暗な海に飲みこまれてしまいます。

ここまでが前半です。いや、現代語にした方がずっと怖いですね。
このあと、所の者がやってきて、今の顛末を語ると、それは是非弔ってあげなさいといわれ、旅人が弔っていると、阿漕の亡霊が地獄の海からやって来きます。

そして、阿漕が仕置き凝りもせずといって、またしても誰もいない海で密漁の様を見せるのですが、やがて地獄の炎に包まれて旅人に助けを求めて消え失せます。

これを映画のSFXでやるとホラー映画になるのではないかと思う程、凄まじいのですが。
能では、そうした凄まじさは言葉の歌によって描かれますから、言葉がわからなかったり、想像が出来ないとそこまでは怖くないかも。
まあ長い黒髪のちょっと怖い顔の能面なんで充分怖いですけどね。

この阿漕が、なぜ密漁に及んだかというサイドストーリーも後に伝わっていて、病気のお母さんを助ける為に魚をとったということです。
その後、江戸時代くらいになると多くの伝承が生まれたようですが、
もともと伊勢神宮と漁師達の間でトラブルがあったのかもしれません。
つまり漁師にとっては生活権の侵害なわけですから、禁漁とかは困るわけです。
今でもクジラやマグロの漁業権の問題ありますもんね。
ですから、単に漁が大好き♥とかいう事を超えて、もう生きる為に禁を犯したこともあったのだろうと思います。
しかし、それしかないから嫌いやでやっていたとばかりは云えない。
密漁をするうちに、我を忘れてゆく。そんな風に描かれています。
我々の日常にもそういうことってあるような気もしますね。

しかし、神聖な禁漁区で、制裁の為に密猟者を簀巻きにして沈めていいのだろうか。
一番怖いのは、やっぱり人間なんですよね。こうしたリアルな話に、さらに殺生戒の話を盛り込み、
それに和歌を詠みこんでちょっと風雅な場面もいれて脚色したのがこの作品の面白い所です。
また型どころも、阿漕だけの漁師の所作など面白く出来ていて、気が付けば今回自分で小道具の釣竿やら四つ網まで作ってしまって。気分はすっかり漁師であります。

果たして当日、舞台と客席が海になるかどうか。
頑張って勤めたいと思います。
もう信じられない猛暑で外出も大変だと思いますが、熱中症対策をして、よろしければ是非見に来てください。
チケット当日自由席20枚位あるそうです。廊下に熱中症対策の飲み水タンクが設置されていました。
観世九皐会事務所に当日お問合せ下さい(土曜日お休み)電話03-3268-7311

はー多忙で解説が間際になってしまった。読んでくれる人いるのかな。。。