若竹能の通盛の公演も近づきました。2年前にツレの小宰相局をした時の記事がBlogにありますよと稽古場で見せてもらい、その時の心情を書いているので、誤字修正して再度UPさせていただきます。

《以下以前のBlogから》
「平家物語を読むと、平通盛(みちもり)と小宰相局の馴れ初めから、局の入水までが描かれています。
宮中一といわれた美人に恋をした通盛が、恋文を出し続け、ようやくその恋が実り、幸せをつかんだ矢先に、源氏との争いで通盛はあえなく戦死。局は子を身ごもりながらも、船で落ち延びますが、鳴門の海で一人入水して通盛の後を追います。船中の人が、入水に気づき引き上げられたときは息も無く、哀れんだ人々は通盛の遺品の鎧に包んで海中に沈めたとあります。享年19歳。
生きながらえ出家の道もあったろうし、また、再婚なんてこともあったかもしれないわけですが、そうしたことを拒んでの後追いに、貞女の鏡とされたわけですね。

能では「通盛」というタイトルで、通盛がシテであり、局はツレとして登場しますが、前半の登場からツレがまず謡い出すという、異例の始まりをする演出。
能では、鳴門の海の磯辺で平家一門の弔いをする僧の前に、船に乗った老人と姥が現れます。そして、通盛と小宰相局の話を物語るというストーリー。
そして、後半では、通盛夫婦が登場して昔語りをして回向を頼みます。
通常の演出では、台本には姥とありますが、前半から姥ではなく、若い女の姿で登場します。
通小町なんかと同じ演出ですね。
前半の入水までの長物語に、若い姿の方が若い小宰相のイメージがよく出るということですね。

後場にある【クセ】の部分では、なんと道盛と見詰め合ったままという、これまたこの曲ならではの濃厚な演出があり(観ている客席では、さほど感じないかもしれませんが、やっているほうはかなり異例で、役と役がずっと向き合ったままという演出は能では、あまり無いのです)、死に行く道盛との前夜の別れが描かれています。
小宰相局は、平家の都落ちで通盛と共に都を離れたのですが、通盛は局と離れがたく密かに陣中に局を招き入れたわけで、それを弟の能登守教経にたしなめられています。その辺りが、この演出でよく出ていると思います。

今回、ツレ小宰相局は前後とも同じ姿での演出とのことで、前半が終わって幕に引かずに、舞台上のお囃子の後ろの後見座というところに中入りの間中、後ろ向きに座ります。
(この公演では、そうでした。今回も同じ予定)

観客からは見えていますが、見えていない(中入りしたと同じ)とする昔からの演出です。この「いない」のに居て「存在」するという演出は、舞台制作上の合理性とともに、一曲を通じて舞台に「小宰相局」を存在させる、能ならではの優れた演出ともいえます。今風にいえば一種のサブリミナル効果といえるのではないかと思います。


《次の記 事は2年前のその公演後に公演後記としてBlogに載せた記事》


土日と参加した週末2公演も終わりました。
昨日の通盛は、やはりクセの向合いが独特でした。本番はお互いに面装束をつけているので、すっかり役に入ります。通盛がりりしく、その立ち去る後ろ姿に永遠の別れがありました。
現代演劇のようにまず感情が先にあり、100パーセント感情移入するというのとは、能の演技は違うと思いますが(少なくとも私は違います)、ではただ型通りかというと、それとも違い、役の小宰相局の女の部分は確かにしっかりあって、役と演じてる自分とか感情とか理性とかが、何層かの階層が同時にあるというか、不思議な気持ちを経験します。
普通の芝居でも、そういう階層を持つ感覚はあると思いますが、それとも違うのですね。能の台本や演出、また演者が能面を掛けるというのが、感覚的な違いをもたらしている要因であることは間違いないと思います。
この役は何度かしておりますが、今までは、お相手がずっと年上の先生だったりしたせいか、あるいは、経験不足でそんな心の動きを感じる余裕がなかったのかも分かりませんが、今回は、通盛の顔に惚れ惚れいたしました。とはいってもこれは能面ですが、まさにその夜のリアリティーがある感じでした。シテは中所さんでした。


もうひとつ、ツレは中入りせずに後見座に後ろ向きにくつろぎますが、そうすると、ずっと中入りの間狂言の語りを聞くことになります。
通常は、シテもツレも幕に入ってしまいますから、ワキ以外の役がこの間語りを聞くのは珍しいのです。通盛と局の二人の馴れ初めから最後までを背中で聞きながら、思わずシオリ(泣くしぐさ)をしたくなりました。なんとも不思議な気持ちなのです。戦争で自分が死んだ後に、自分の物語をすぐそばで聞かされるというか。
まるで幽霊になって、生きている人の会話を聞くような感じです。(実際、舞台上ではそういう役どころですが)
そして、ワキに弔われて再び、舞台に入るのですが、これはやっぱり弔ってくれた僧に感謝の念が出てきます。
そして、もう一度今度は通盛が若い姿になって通盛の視点で別れの場面、戦の場面が語られる。
姿を変え、語り手が変わりながらも、幾度も語られる二人の話。不思議な余韻の残る作品でした。
まずはありがとうございました。

追記 最後に同幕(連れ添って幕に消える)で入るのがとてもよくて、最後は一緒になったんだなあ、という感じがありました。』



以上2年前の記事ですが、書いた自分はすっかり忘れておりました。
今読み返すと何か我ながら不思議な感想を述べてますね。今回私は通盛の方を演じるのと、古川君の小宰相と共演ですので、また違った思いが出てくるかと思います。
すでに何度か今回の稽古しながら、「こりゃ前回のツレの時とは感じがずいぶん違うなあ」と感じています。見える景色がまず違うんですね。船に乗るとまず目の前に小宰相がいる。ただそれだけでもういろいろ違います。男と女の違いとかも何とはなく感じます。
特に忍んで陣中で局と対峙した時は、「能」と「受」の違いとか。ちょっと言葉ではうまく感覚を説明できないのですが。役が変われば自ずと変わるように出来ているのだなあという感じです。
今回の公演では、解説に代えて飯島晶子さんの平家物語の小宰相の下りが現代語を交えて朗読されますので、平家物語に詳しくない方も能の下敷となった平家物語を楽しんでいただけると思います。
何とか風邪をひかずに当日を迎えたいですね。頑張ります。
皆様もどうぞお風邪など召されませんように。