さて、見どころ解説、駆け足で一気に最後まで書きましたんで、1からまとめて掲載。後半は見る楽しみを残してはしょりましたが(笑)
では。
やはり誤字ありました。少し加筆訂正。
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隅田川見所解説

隅田川は、能の世界のみならず古典芸能からオペラにいたるまで様々なジャンルで取り上げられた名曲ですが、最初に戯曲化したのが、世阿弥の息子、観世十郎元雅です。もう600年も前の事です。
以来、もう数え切れないほど多くの能役者がこの舞台を勤めて来たわけで、完成された演出と台本が出来上がっています。
あとは、その日舞台に乗る演者次第というわけですね。

観世流では九番習という扱いで、私もようやく演じる機会を得ました。
まあ、実際この役を演じるには、それなりの年齢にならないとピンと来ないという感じはあります。
なにせ誘拐された子供を母親が探すというストーリーですから、それなりの年にならないと臨場感がでないというのはあります。
丁度、私の子供が、子方を演じられるようになったので、今回初挑戦となったわけです。梅若丸の役は、台本上では12歳ですが、能の舞台ではもっと小さい子供が演じることが多いですね。今の子は、背が高いので、12歳だともう私の背を抜いてしまう子もいますから(笑)

私も37年位前に先代の観世喜之先生の子方(能の子役)をさせて頂きましたが、子供のことなんで、その時の舞台がどうだったかは判りませんが、とにかく一日、楽屋でも舞台でもじーっと大人しくしてないと駄目な雰囲気で、大人達はやたらに正座して挨拶をして、着物は着てるし、ぴりぴりしてるし、ここはお侍の世界みたいだなー。と思ったりしたのを憶えています。

それから40年近くたって、ようやく今回の上演ですから、なにか感慨深いものがあります。子方の謡う場面はほんのわずかなんですが、その謡の節(メロディー)がなかなか憶えられずに父を焦らせた思い出がありますが、今、全く同じことを自分の子供の間でやっていると、自分の方が覚えがよかったように思えたりしてやきもきしますね(笑)。
今回、親子初共演。父が後見を勤めますので、親子3代初共演ってことに、一応なりますか。まあ、やっているほうとしては、逆に神経を使いますが。


さて舞台は、はじめ例により幕内でお囃子のお調べという、オーケストラピットのチューニング的な音の調子を整える音が聞えて参ります。能の楽器の皮は、その日の湿度で直ぐに変化しますし、演奏中も調整しながら打ったりしますので、大変デリケートな楽器なのです。このお調べがすみ、お囃子と地謡が舞台に登場して、能が始まります。

はじめに塚が幕から出てきて、舞台真ん中後方に置かれます。
この塚が、物語のクライマックスの舞台背景になるのですが「それまでは舞台上にあるけど見えてない」という設定です。

能の舞台は、隅田川の川のリアルなセットや、荒涼とした川原のセットを舞台に持ち込みません。舞台の柱と屋根に仕切られた何もない空間で、その物語の世界を作り上げて行きます。
舞台セットを持つ歌舞伎や周り舞台の芝居のように、あとから出せない構造の舞台という理由もありますが、このはじめに塚が出ることで、観客の意識の底に塚の持つイメージが埋め込まれます。
ですから、ここはまだ舞台が始まっていないと思わずに、リラックスしながら観てもらいたい場面です。

この曲に限らず、能の作り物はとても重要な意味があります。優れた後見が作り物を出されると、ピタッと意識が釘付けになりますね。

心理学的な研究をするわけでもなくそういうことが経験的に演出に自然と取り入れられているのが見事です。

さてここから舞台に役者が出て物語が始まります。

舞台は、隅田川のほとり。客席辺りが大きな川になりましょうか。
最初に登場するのは、この川の渡し守の船頭です。

この船頭は、ただの渡し場の舟を漕ぐおじさんではない重々しさがあります。
悲劇性の高い重い演目のワキということもあるのでしょうが、この渡し守、腰に小刀をさしています。能台本にも船頭とは書いていません。
渡し守。武蔵野国と下総の境界に流れる辺境の地、隅田川の渡し守は、関守に通じる役目を持った人ではないかと推測されます。

そして、この曲では、本当に大事な役であります。
というわけで以下、渡し守と書きます。

今回は、下掛方宝生流の高井さんに渡し守をお願いしておりますから、ワキ、ワキツレ共に観世流の謡い本とは台詞や詞章が少し違います。
「この間の雨で増水しているので、一人二人では渡せない、少し渡る人を待って渡そう」と話します。
そこへ東国へ帰郷する男がやってきます。そして、はるばる東国隅田川までたどり着いたことを謡って、乗船を頼みます。

すると、向こうから何やら人だかりがするので、渡し守がいぶかしがると、あれは都から下って来た狂女 きょうじょ)だと旅人が云います。
じゃあ、あの女を待っていようということになります。
物珍しい都から来た狂女を見てやろうという、そんな気持ちでしょうか。

舞台上では、勿論、狂女をはやし立てる人達は登場しませんが、お囃子が登場の出囃子を演奏して囃子ます。女はそれに乗って現れます。
旅姿を現す笠を頭には被り、笹を手にしています。


さて、狂女と書いて(きょうじょ)。これは一体如何なる人をいうのか。
(1)遊芸を業とする旅する渡り巫女
(2)狂わしいほどの一途な思いを持った女の姿を描くために作り出された能独特のキャラクター
(3)大切な人を失ったために、精神の均衡を失った女性
(4)あるいは実際にある精神の病の一種で、ある言葉や状況で突発的に過剰な反応する人。等など。すでに識者の方々が様々な見解を表しておられます。

隅田川の場合は、子供を失った女が、もう気が狂わんばかりの心配と不安を抱えて、一途になりふりかまわず、通りすがる人に子供の行方を聞いて探し回る姿が、人々には普通の人ではない「狂女(3)(4)」に写ったのでしょう。
また、この女性がもともと如何なる女性かは全く語られていません。後世に書かれた隅田川木母寺縁起のように、能「班女」の女(花子)であれば、遊女ですから、遊芸の技を持って旅をした「狂女(1)(2)」でしょうし、また、すでに「班女」時代(恋人、吉田の少将と結ばれる前に)にすでに一度、「狂女(3)(4)」になって旅していますから、「狂女」になりやすい精神構造をしているとも考えられます。

まあ、そう考えるとなんとなく納得してしまうので、北白川の吉田の何某を接点に、この「班女}「隅田川」の習合した縁起が作り出されたのではないかと私は思いますが、それはそれとして、狂女とはいう話なると、どうもこれだという決め手がなく、どれかひとつに答えを決めがたく私は感じています。


能「隅田川」で渡し守が待とう思った都から来た「狂女」は、狂いの芸を見せる身分の低い遊芸者としての(1)ということだと思います。
しかし、彼女自身は、ただの遊芸者ではなく、本当に狂おしい思いを抱えた「狂女(3)(4)」であった。ということが段々明かされてゆくのだと思います。それゆえに遊芸者の華やかさと、狂気と悲しみが織り交ざった魅力あるキャラクター(2)が浮き上がるのだと思います。
とまあ、とてもわかり辛い説明ですが、私はそんな風に考えております。

さて、舟の渡し場にやってきた女は、自らの素性を独り言として客席に語ります。
子供の行方を訪ね訪ねてここまでやってきたのだと。そして、「翔カケリ」という名称がついた所作。舞台をぐるりと物狂おしく、また彷徨うような風情で廻ります。
物狂いの能には、カケリがつき物ですが、これは修羅物といわれるジャンルの武者の曲でもはめ込まれています。その時は、一人で舞台を巡りながら、戦いの修羅の苦しみとか戦いに明け暮れる様を表します。

この「翔」は、言葉はなく、写実的な型でもなく、また狂いの舞とも少し違う、女の旅してきた時間をよく表しているのだと思います。

女は、一人息子を人商人に連れ去られ、行方を追って女一人で、最果ての東の地までやってきたのです。
この女の独り言のような事情説明は、渡し守や旅人と同じ舞台上で行われますが、船頭はまだ女の抱えた事情を知りません。

そして、狂女ならば、面白く狂うって見せろと狂うことを強要します。狂わないなら乗せないぞと、ちょっと見下した意地悪な物言いです。
女は、この隅田川の渡し守ならば、「伊勢物語」登場する隅田川の渡し守のように、やさしく船に乗せてくれないのかと訴えます。
渡し守は、さすがに都から来た狂女だ、伊勢物語を話しに持ち出すなんてと感心します。

女のことを、「名にし負いたる優しさよ」と渡し守が言うと、その言葉に反応して、女は歌いだします。

それは、在原業平が詠んだ歌。伊勢物語で東国に下った主人公が隅田川で舟に乗り、カモメを詠んだ歌。その歌を聴いて船中の人が皆、涙したという歌でした。

「名にし負わば いざ事問わん 都鳥 我が思い人は ありやなしやと」(カモメたちよ、お前達が都鳥という「都」をつけた名前で呼ばれるならば、私の都に残したあの人は、達者でいるかしっているか)

その歌は、女の心情。我が思い人。すなわち我が子を思う歌でもありました。

隅田川に飛び交うカモメに向かってわが子の行方を歌にして問いかける女。しかし、カモメが答えるはずもなく、女の声は風の中に消えます。
思えば女は、遥か一人で人目にさらされながら旅をしてこの隅田川にたどり着きました。そして、この川を渡った向こうに行けば、子供に会えるかもしれないと思っているのです。
その物狂わしくもどこか風雅な都の狂女の訴えに、渡し守は乗船を許して舟は岸を離れます。

この時、舞台には舟の作り物は出てきません。しかし、もはやこの辺りでは、観客にもちゃんと舟や川が見えているのではないかと思います。

さて、舟はゆっくりと対岸へと進んでゆきます。
すでに対岸では、人々が集まりなにやら行われようとしています。
旅人が尋ねると、渡し守が答えます。
あれはこれから大念仏が始まるのだと。
それについて悲しい話があるから舟が着くまでお聞かせしようと渡し守が語り始めます。

この隅田川の語りは流儀により多少台詞は違いますが、まさにこの物語の核心で、現代語に近いので聞き取り易いと思います。

ここから先は、実際の舞台を見て頂きたいと思いますので、読み飛ばしても良いかと思いますが、一応、駆け足でエンディングまでお話します。有名なお話なので、すでに結末をご存知の方も多いと思いますが、舞台を見る楽しみが減ると、思われる方は、ここまでにして下さい。








では、よろしければ物語の最後をお話します。


今からちょうど一年前の今日。
人商人に連れた幼子は、身体が弱って歩けなくなったので、道端に置き去りされた。
土地の人達で介抱したが、その甲斐もなく弱って息を引取った。
息を引き取る前に、名前と素性を最後に聞いた。
名前は梅若丸。年は12歳で、北白川に住み、父は吉田の何某というようだ。
都から連れてこられ、都の人たちが懐かしいから、都の人が行き交うこの街道の道のほとり埋めて下さいといって、息を引取った。

女は驚いた。
それはまさしくわが子のことではないのか!
気が動転して涙が止めどもなくあふれ出て、身じろぎも出来なくなった。

舟が対岸に着き、皆その哀れな話に共感し念仏をあげてゆこうと思った。しかし、女は舟を降りることも出来ない。
渡し守に促されてようやく正気を取り戻して船頭に聞きなおした。
その子の名前は。その子の年は。その子の父は。母は訪ねてきたのか。
そう、母親が訪ねるはずもない。なぜならその母親は私なのだから。

渡し守は驚いた。あの幼き子供の母親が、まさかこの狂女であったとは。
泣き崩れる女を促して、渡し守は幼子を埋めた塚へと子供を連れていった。

そして念仏を唱えて供養を勧められる。日は沈み、月が空に輝き始めた。
女は虚ろになりながらも子供の為に念仏を唱える。
そして、集まった人々も念仏を唱和する。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

その繰り返される念仏の中に、母親はふと。わが子の声を聞いた。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

まさしくわが子の声。女は鉦を鳴らして必死に念仏を唱えた。

すると。涙に滲んだ瞼の向こうにわが子の姿が現れた。
女は必死に子供を抱きしめようとする。

しかし・・・・。

それは、浅茅が原(この辺りの地名)に現れた幻。
抱きしめたと思ったのは、塚の草。

遥か彼方から旅してきた女が、最後にたどり着いたのは、荒涼とした彼岸の野原だった。


こうして舞台は静かに終わります。
この悲劇に皆様は何を感じるでしょうか。


この曲の作者といわれる、世阿弥の息子観世十郎元雅は、30歳代の若さで、旅先で謎の死を遂げます。父、世阿弥に類なき才能といわれ、一座の未来を背負っていた元雅の死は、世阿弥に暗い影を投げ、さらにこの後、世阿弥は佐渡へ配流となるのです。

元雅の作品には深い人間観察と写実性が伺われます。
元雅自身が若くして不遇の死を遂げたため、この作品とオーバーラップして、隅田川は能楽随一の悲劇として高い芸術性を評価されてきました。
古今の名優が演じてきた作品をどこまで演じられるか。頑張ってみたいと思います。

よろしくお願いします。