申し会わせが終わり、アップしていなかった記事を載せます。
なお、当日券まだあります。
1時より能「難波」 狂言 仕舞 のあと野守です。
当日11時以降に、矢来能楽堂03-3268-7311へお問合せ下さい。

今日は、長いので、続き・・・をお読み下さい。
野守とは、野を守る番人。
今風に解釈すると、公園管理人になってしまうが、それとはイメージが重ならない。
謡本の役柄の附には老翁とあり、それ以外は、台本にもよく語られない。

この曲に使う小道具には、杖と鏡がある。
能で使う杖には、山姥に使う太い杖もあるが、大抵は竹の細い杖だ。
杖にすがる者を演じる時に使う。(実際に歩く為に杖にすがるとは限らない。何かにすがる、あるいは何かを打ち払うのかもしれなし、象徴的なこともあろう)

私の散歩コースの石神井公園の林を歩いていたら折れた枝があったので杖にして歩いてみる。
なるほど実際について歩くにはそれなりの太さが必要だ。
もしかしたら能の創生期は、そうした物を使っていただろう。それが、洗練されて今は漆のかかった細杖だ。
私も何本かのマイ杖を持っているが、よく見るとなかなか美しい。演者は、自分の身体にあった寸法にして使う。

この杖は細くて本当に体重をかけると折れるので、杖をつく象徴的な型として使う。
舞台でよく見れば判るが、老女、老人、幽霊など、役によってつき方が違う。
実際のつき方からしぐさに変化した。しかし、なかなか理にかなったつき方が型として伝承されている。
例えば、実際に公園の池のふちに立って池を覗き込むと、杖は前にして支えないと前のめりに池に落ちそうになる。
そんなバランスのとり方が、型の中にも生きている。修練を積むと、リアルな実際の姿とも、ただの型通りとも姿とも違う、自然な姿が現れる。

70年もこの世界にいる父などは、私の杖姿を一瞥して、「ただ杖をついているだけだな」という。
「ただ杖を突いているだけでない、杖の突き方とは???」話が深くて身動きが取れなくなる。
この年になってもおよそ褒められたことはないのですぐに正解が出ないのは慣れている。自ら体得するしかない。

それにしても老翁、老人、老女などという言葉は、現代においてはもはや死語になりつつあるが、能の台本には登場する。
実際のその年にならなくても、その役を演じることは多い。
「老」というのは、私はまだ捉えどころがない。4コマ漫画などに出てくる背を丸くして杖をつく弱々しい人というのでは、単純すぎる。

八十歳を過ぎた私の父、六郎は、年齢的には間違いなく老翁であろうが、現役で背筋を伸ばして舞台に立っている姿など見ると、全くこの言葉にそぐわないし、テレビのニュース等を見ても老練、老獪な先達も多い世の中である。どこか長閑な「老」というのは、浮世離れした能のキャラクターになりつつある現代であった。

この老翁という役柄を演じるといっても、背筋を曲げたりはしない。そう稽古を受けてきた。
世阿弥時代の絵を見ると、描き方のせいもあろうが、背を丸めたかなりリアルな姿が描かれている。
創生期の姿は想像出来ないが、おそらく600年のなかで洗練進化して来ている。
身体を屈める構えは、江戸期に至る武芸の構えの変化と共に背筋を伸ばしたスタイルに変わったと聞いたことがある。
その影響もあるのだろうか。杖を持てども、すっきりと背筋は伸ばして構える。
誇張されたリアルな物真似より内面的な要素を、またその他の要素を作り直して表出している。
ひとつの役柄の構成要素は、外見や声など判り易く表に出るものだけには限らないという考え方をしている。
そしてまた、その翁は仮の姿、何かを代弁する姿という考えもある。
(まあ、あくまで私見であることをお断りしておく)

公園の丘や草むらをスタスタと歩いていると、それなりに体力がいる。そのせいか、この頃少し痩せた(いや、痩せた気がする・笑)
野守の翁は、野山を駆け巡っているのだから、イメージは比叡山の千日回峰行者のように、超人的であってもおかしくない。
もちろん歩くのもやっとの杖をついた弱々しい翁でもよいのだが、実際、舞台ではそうした弱さはあまり見たことがない。
やがて塚に消え、再び鬼神として再登場する。

スパーマンのクラークケントとか、バットマンのブースウェインしかり、変身の前後では全く別のキャラクターでありながら内面を共有する。どこかこれに似ているように思う。全くの別人では、話の筋が面白くない。
バットマンなどは、蝙蝠の住む洞窟で変身する。まさに塚で鬼神に入れ替わる野守と同じ構造である。これが物語の常道なのかもしれない。きっと神話的な原型があるのだろう。
こうしたストーリ展開の原型は、今日でもハリウッド映画等のシナリオの骨格に取り入れられていると聞いた。野守のワキが、聞き役でなく、「敵」「悪役」であったら、きっと面白い活劇になるに違いない。

話がそれた。

浄玻璃の鏡は、閻魔大王の持ち物であるが、この鬼神の持つ野守の鏡もそうした力がある。天地を隈なく映し出だす。

一曲の終わりには、すわや地獄に帰るぞとて、大地を踏み破って、奈落のそこへ消える。やはり鬼は地獄の住人であった。
塚は、異世界とをつなぐ出入り口だ。
野守の鬼は、おどろおどろしくなく、超自然的な存在として異世界から現れる。
力強く颯爽と舞いたいものだ。

当日使う鬼神の能面も、クワッと眼を開いた、しかし恐ろしいというより力の塊ような面差しだ。名のある面を拝借するので、心して臨みたい。

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ウキペディアによれば、三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)は直径46センチ位だそうだ。
もちろん実物は見たことないし、その所在も謎だ。咫というのが大きさを表す単位らしい。
今回使う鏡は、これより大きい。そして、とても重い。ジムへ通っておけばよかった(笑)


いよいよ日曜日本番である。
如何なる野守が演じられるか。

公園の草むらを歩きながらそんな事が頭に浮かんだ。
まだチケットがあるそうなので、よろしければ是非ご覧下さい。