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九皐会の公演の為、東京に戻った父と21日の俊寛の稽古。
師匠にも稽古をつけて頂いていて、少しづつ気持は向かっています。

絶海の孤島に流された俊寛が一人だけ島に残されるという極限状態の世界を何もセットのない能舞台の小さな空間に凝縮してつめこんだのがこの能『俊寛』。

この曲には、いわゆるサシコミ・ヒラキという舞の基本所作が一度も出てこないのです。
とても芝居的な要素が強く、気持の詰め開きの表現は、セリフや謡と抑制された型のみ。
泣き叫ぶシーンも、当然ながらひと声も鳴き声は出さないのです。でも号泣するのです。生きることへの執着と絶望。

内面的な感情のうねりや心の状態や性格的なものまで、日常的な表現ではない謡や型に込め、それを客席に読みとって感じて貰う。感じさせるほどの臨場感を作り出す。でも演者自身はそれでいて泣いているようで、泣いていない、でも泣いている(笑)

虚構の世界を演じるというのは、とても不思議な行為です。まるで荘子の胡蝶の夢のようであります。
何を今更では、ありますが、稽古をつける父の試演を見ていると、あらためて奥の深さ、人間の心の動きの不思議さを感じた今日でした。

そうそう、昨日、所沢で新聞社の方の取材を受けました。
とても不思議そうに舞の基本稽古を見ておられたので、こんな説明をしました。(すり足をして、腕を前に出し、横に開く、サシコミヒラキを謡いに乗ってしていました)

『舞というのは漢字に似ているかもしれない』と。

漢字は一つの文字の形が多様な意味を持ち、物の名前だけでなく、感情や色や季節や香りや時間や空間といった畳み込まれた多様な世界と繋がっている。
その情報を読み解く知識や感性があると、線の集まりに過ぎない二次元の文字である漢字が無限の世界と繋がっていく。

能の舞の型は、日常的な人間の動きというより、幾何学的な軌跡を空間に描く。それは多様な表現をシンプルに集約した、漢字に似た表現ではないかと。この舞が謡(言葉と音声)と一体となった時、多様な世界を表現する人間だけに出来る方法になる。と。
例えば・・・。と、曲の説明と型の意味を説明をしたんですが、わかって頂いたのか・・・。要は知れば知るほど面白いって云いたかっただけなんですが(笑)

能書きの多い役者と思われたかもね(笑)


今日は九皐会の申し合わせもありました。
東京の九皐会では20年ぶり(訂正28年ぶりらしい)の唐船。面白い。船上のビアニストならぬ、船上の楽。いつもは三間四方で舞う舞を三尺四方の船の先端部分で舞うのです。
これぞ畳み込まれた世界の表現。
芸術は爆発だ(笑)